はじまりのフォーティーン

 ずっしりと重たくて生ぬるい、泥の中から這い出すような目覚めだった。
 目の前の闇を掻き分けて進みたいのにうまく腕が動かなくてやきもきして、こんなはずがない、俺はもっといけるはずだ、と焦れば焦るほど沈んでいくまるで底なし沼のような後味の悪い感覚が両腕に染み付いている。早く這い上がってみんなの所に戻らないといけないのに。早くしないと怒られてしまう。置いていかれてしまう。そんなことばかり必死になって繰り返していたような記憶が薄ぼんやりと残っているが、どうしてそんな状況になったのかは微塵も思い出すことができなかった。ただひたすらつまらない夢を見ることはあったけれど、こわい夢というのはあまり見たことがなかったので、目が醒めてからしばらくの間、黄瀬は見慣れた自室の天井をまばたきもせずじっと見つめていた。
 ああそうだ、ここは自分の部屋だ。
 のろのろと腕を持ち上げて、額の上に貼られている冷却シートに触れた。眠っている間に時間が経ってしまったせいか、体温でぬるまったそれはやや乾き始めてしまっている。
 黄瀬はこれが嫌いだ。フェルトのような手触りのくせに、ぐにぐにとやわらかくて、あたたまってしまうとなんだか気持ちが悪い。それに、冷却シートを貼るときは体調を崩したときだからだ。
 学校は、昨日から休んでいた。気をつけていたはずなのに風邪を引いてしまい、熱がなかなか引かないのだ。医者にもらった薬を飲んでひたすら寝ているおかげか昨日より幾分マシにはなったものの、この調子では明日から復帰とはいかないようだ。

「あーあ……」

 カーテン越しに差し込むオレンジ色の光はもうだいぶ薄れていて、もう夕刻過ぎなのだと知れた。きっと学校ではひと通り部活動の時間が終わって、自主練に励んでいるところだろう。それを思うと、ベッドでへたっている自分がなんだかとてもみじめな気さえした。
 やっと見つけた「楽しいこと」なのだ。楽しくて楽しくて一分一秒すら惜しいのに、三日も立て続けに練習を休んでしまうなんてとんだ失態だ。その間に、きっと他の皆はさらに上達していってしまうだろう。テクニックを身につけるスピードは早いと自負しているが、それでも追いつけない速さでどんどん強くなっていく。
 それが「キセキの世代」だ。
 こんな経験は初めてだ。大抵のことは何だろうとすぐこなせてしまう黄瀬にとって、超えられない「何か」の存在はずっと心の奥底で渇望していたものだった。正直に言うと、バスケ部に飛び込んだ当初はどうせまたすぐマスター出来るんじゃないか、なんて甘い考えもあった。そうしたらバスケットもまた、自分にとってひとつの通過点に過ぎないものになっていくんだろうな、と。今ならそれが思い上がりだったとわかる。こなすだけじゃ通用しない、初めての世界は毎日が楽しくて寝る間も惜しくて、まるで生まれ変わったような心地がしていたのだ。

「うあー……練習してぇ……」

 熱気の篭った体育館、窓際に寄ったとき吹き込んでくる風に冷やされる汗がものすごく気持ちいいこと、バッシュの音、指にかかるボールの感触、そういったものを思い出してしまうと居ても立ってもいられなくなってしまった。
 起き上がるとふらふらしたので、額の冷却シートを新しく張り替えてからボールを持ってベッドに戻った。仰向けになったまま両手でボールの感触を確かめて、縫い目に指をかける。手首を軽くスナップすれば回転のかかったボールは垂直に浮き、すぐ手の中に戻ってきた。天井に届かないよう加減しながら繰り返すと、ますますシュートが打ちたくなってしまう。
(ミートからのカットイン、動作は素早く、フェイクを入れて……)
 目を閉じるとどんどんイメージが湧いてくる。ワン・オン・ワンの相手はもちろん、目標としている青峰大輝の動きだ。練習試合では通用するロッカー・モーションもスピードのフェイクも彼相手には通じない。実力が同じ者同士がぶつかれば、オフェンスの方が基本優位にある。なのに追いつかれてしまうのは自分のほうが格下だからだ、ということも、黄瀬は既に理解していた。自分より強い相手。でもそれはずっと望んできた存在だ。
(……イメージの中でも勝てねえっス)
 何度も脳内でシミュレーションを繰り返し、ああやっぱり早く練習がしたい、と思いながら目を開けると、

「――……ッ!?」
「よお」

 目の前につい今この瞬間まで思い描いていたまさにその相手が現れて、黄瀬は目を見開いた。慌ててがばりと身体を起こすが、目の前が眩んで再び枕の上に頭が落ちる。

「な、な、なんで青峰っちがここにいるんスか……!? まさかイメトレのしすぎで、」
「はあ? 何が、っつーか何してんだよソレ」

 それ、と指されたのはボールだ。だから「ボールっスよ」と答えると、青峰はあからさまに嫌そうな表情を浮かべてボールをふんだくった。

「風邪引いてんなら大人しくしてろっつーの!」
「だから休んで寝てるじゃないっスか……!」
「ボール持って何が寝てるだバカ! ったく、赤司に言われて渋々自主練切り上げてきてやったらこれだしよ……」

 スポーツバッグを床に置いた青峰は、ベッドを背もたれにして床に座り込む。黄瀬からはその後姿を見ながら、なあんだ赤司っちの命令かあ、とほんの少しだけ残念に思った。もちろんわざわざ青峰が見舞いにきてくれたのはそれ以上に嬉しいのだけれど。

「まだ熱あんの」
「ちょっとだけっス。明日……は無理かもだけど明後日には練習行くっスよ」
「ふーん……ま、さっさと治せよ。お前がいねえと自主練のやり甲斐がねーんだよ」
「えっ」
 それってどういうことっスか!? と畳み掛けようとしたところでうっかり唾液を変に飲み込んでしまい、黄瀬はゲホゲホと咽せこんだ。
「っおい黄瀬、大丈夫か」
「……っゲホ、だ、大丈夫っす……何でもないっス」

 毎日毎日むりやり挑んでは負けている1対1だが、少しは認められているのかもしれない。途端に嬉しくなって、次こそ勝てるかも、などと思ってしまう。と同時に、たかが風邪でへこたれている自分がますます悔しくなって黄瀬はうう、と呻いた。

「はー、オレなんで風邪なんて引いてるんだろ……」
「バカだからだろ」
「青峰っちヒドイ! 青峰っちだって風邪ぐらい引くっしょ!?」
「そりゃ……あ? バスケ始めてからは引いてねーかも」
「うわあ」

 マジでバケモンっすね、と言うと殴られた。けれど本当に、弱っている青峰の姿はとても想像がつかない。青峰はバスケをしている時の姿が一番似合う。ひたすら没頭して楽しそうで生き生きしていて、そして強い。だからこそ黄瀬はその姿に憧れたし、目標とすることを自身によしとしたのだ。

「……どうやったら青峰っちみたいに自由自在に動けるようになるんスかね」
「風邪引くような軟弱さを鍛えることだろ」
「ひどいっス! オレ超真面目なのに!」
「自由自在なんて無理に決まってんだろバーカ、んなこと出来りゃ移動すんのにチャリも電車も要らねえだろ」
「……はい?」

 一瞬考えこんでから、自由自在イコール空も飛べる、のように解釈されたのかと気付いた黄瀬は爆笑した。あはははは青峰っち、そりゃー人間は誰でも無理っすよぉ、オレが言ってるのはバスケの話でぇー、と腹を抱えているうちにもう一発げんこつを食らった。

「なんだよお前、へばっててもウゼエな」
「完全復活まであとちょっとっスよ」
「ふん、どーだか」

 青峰がスポーツバッグからしわになったプリントを取り出し、黄瀬はそれを受け取った。プリントには来週の土日の練習予定が書かれていて、どうやら練習試合を組むことになったらしい。しかも遠征だ。
 帝光バスケ部は部員数も多く強豪校であるため、学校の設備はかなり良い。それゆえか、一軍の練習試合では自校に他校を招くほうが割合多い。わざわざ遠征する時は、それだけの理由があるということだ。たとえば相手がそれなりに強いチームであるとか、面白い選手がいるだとか。時に気まぐれのこともあるが。

「お前がちゃんと本調子に戻ってたら、その試合スタメンだとよ」
「ちょ、……それマジっすか!?」
「せいぜい足引っ張んなよ。オレだって自由自在に動けるわけねーんだから」

 ホイ、と投げられたボールを受け取った黄瀬は、首を傾げて青峰を見た。

「本当に思い通り身体が動いたら練習なんてしねーっつの。ままならねえことぐらいオレにだってある」
「……っ」

 あれだけ思うまま動けて、ボールなんてまるで青峰に従うようにゴールに吸い込まれて、それでも尚まだ先があるのか。あの青峰ですら。と同時に、もしかして今のはちょっと励まされたのかも、と思った。たったそれだけで胸が高鳴るほど喜んでいる自分、にほんの少し呆れながらも、もっと認められたいという気持ちがすぐさま湧いてきてしまって困る。
 んじゃ帰るわ、と立ち上がった青峰のシャツを掴んでしまったのは、だから無意識のうちだった。

「いやっ、な、なんでも……ないっス……!」
「なんだ?」
「や、ちょっとままならなかっただけで……」

 何でもないんスよ、と我ながら苦しい言い訳をしながらボールを床に転がした。これ以上なにか変なことを口走る前に青峰には帰ってもらって、さっさと寝て風邪を治してしまわないといけない。明後日どころか、明日から練習に戻りたくてたまらない。

「黄瀬ェ」
「!」

 ごつん、と冷却シートごしにぶつかったのは青峰の額で、黄瀬はひゅっと息を呑んだ。ぬるくて気持ちワリ、と苦笑して顔を上げた青峰は今度こそバッグを肩にかけて部屋を出ていった。

「明日には治してこいよ」

 足音が遠のいて、恐らく母親と何か話す声がして、玄関のドアがしまる音がした。呆然としていた黄瀬はそのあたりでやっと正気を取り戻し、頭まで布団に潜り込むとますます熱くなってしまった頬を両手で抑える。
 ――キスされるかと思った、とか。
 うわーっと声に出したいぐらい変な勘違いをしてしまった自分が恥ずかしくて、部屋にひとりきりにも関わらず身を縮こませる。耳が火照っていて、また熱が上がってしまったのかもしれない。
ああそれにしても早くバスケがしたい、走りたくてうずうずする。もちろん青峰とも。そのためには明日までになんとしても治してやらなければならない。ガンガン眠って治すぞ、と黄瀬は布団にくるまったまま目を瞑ったが、なかなか睡魔は訪れてくれそうになかった。