黄瀬くんの新しいバッシュの話

 黄瀬はうきうきしながら体育館に入り、「ちわっス!」と敬礼のポーズを取った。ホームルームが早めに終わったお陰で集合時間にはまだ15分ほど余裕があり、既に準備を済ませている部員たちはそれぞれストレッチやボールハンドリングをしながら談笑しているところだった。
「どうした黄瀬、今日は随分機嫌がいいな」
「え、わかるっスか? 実は――」
「おお、新しいバッシュか」
 前屈をしていた小堀が黄瀬に話しかけ、その返事に被せるように顔を出したのは森山だ。こちらは既に柔軟を終えたのか、指の上でくるくるとボールを回している。
「そーなんスよ! 前のヤツだいぶ使い込んでたし、ダメになる前に新しいやつ慣らしとこうと思って」
黄瀬はコート外に置かれた雑巾を踏んで、きゅっとバッシュを鳴らした。新しいものをおろすのは好きなのだ。
モデルという立場上、洋服やアクセサリーの類は多分普通の高校生より多く持っていると思う。撮影で使ったものをそのまま買い取ることもしばしばだ。だからといって新しいものにありがたみがないか、といったらもちろんそんなことはない。バスケに関係するものならなおさらだ。バッシュだけではなくシューズケースやタオル等、そうそう頻繁に買い換えるものではないぶん選ぶときはとても楽しいのだ。
「そういえば黄瀬は青が好きなのか? 前のも青ラインだったよな」
「んー、ウチのユニフォームに合わせてっスかね。まあ青も好きだけど、ほら、オレ何色だって似合うじゃないスか」
「ああ…………まあ……」
「そんで、笠松センパイは、……っ!?」
 小堀がうんざりといった調子で頷くのを気にも留めず、体育館の中を見回した黄瀬は不穏な空気に一歩後ろへと飛び退いた。ちょうどその位置を狙って森山の足がダン、とやや強すぎる音をたてて踏み下ろされる。
「な、な、なにするんスかセンパイ!」
「そりゃあお前、新しいバッシュは踏んでやらないとだろう」
「いや今のそういう強さじゃなかったっスよね!? それにオレ、最初は笠松センパイに踏んでもらおうと思ってっ……」
「へえ?」
 森山は持っていたボールを他の1年にパスして渡し、空いた両手をわきわきと動かしながら悪どい顔をする。さっと顔を青ざめさせた黄瀬は森山から逃げ出し、それを合図に体育館の中で追いかけっこが始まった。
 海常高校は敷地が広く、バスケ部は専用の体育館を使っている。そのため主将も監督もまだ顔を出していない体育館では止める人はだれもおらず、まだアップもしていない黄瀬は息をあげながら全力で走り、そのすぐ後ろを森山が追いかけていった。それを他の部員たちがなんだなんだと好奇心に満ちた目で見つめている。
「何なんスかセンパイ! ちょっとマジで怖いっすよ!?」
「オレじゃ不満だって言うのか黄瀬?!」
「そうじゃないっスけど! オレにはもう心に決めた人が……!」
「なら奪うまでだ!」
「だから! あー小堀センパイ助けてっス!」
 ストレッチを終えた小堀に助けを求めたがスルーされ、黄瀬は「センパイのばかー!」と涙ながらの叫び声を上げた。ゴール下を通りかかったところで誰かのシュート練習中のボールが直撃し、ぎえっと声を上げる。追いつ追われつの均衡状態はそのまましばらく続き、二人ともゼエゼエと肩で息をするほどになったそのとき、半開きになっていた体育館の扉が開いた。「センパイ!」と黄瀬は喜び勇んでそっちへ駆ける。

「ちわーっす!!!」

「! 早川センパイ……!」
「早川!」
 しかし黄瀬の予想は外れ、大声で挨拶しながら入ってきたのは早川だった。
 ゲッ、と顔を引き攣らせた黄瀬に反して森山はにやりと口角をあげ、びしっと黄瀬を指さす。そして早川! と先輩らしく指示を飛ばした。
「黄瀬をつかまえろ!」
「(ラ)ジャーっす!!!!」
「ちょ、それ反則っスよお……!」
 体格的にはほぼ差がないものの、海常屈指のリバウンド奪取率を誇るパワーフォワードに羽交い絞めにされては為す術もない。逃げるまもなく後ろを取られた黄瀬は自由にならない腕をばたつかせた。けれど黄瀬の抵抗もむなしく正面を取った森山は、じれったいほどゆっくり間合いを詰めてくる。
「ほんとダメっスから……マジで……! オレには笠松センパイが……!」
「そんなこと言って、本当は強引にされるのも好きなんだろう?」
「や、やめてくださいっス……あーっ来ないで……!」
 黄瀬の悲痛な叫びが体育館にこだますると同時、半開きだったドアからひょいと顔を現したのは今度こそ計らずしも騒動の渦中の人物となっている、笠松だった。

「……何やってんだ、お前ら」

早川に羽交い絞めにされている黄瀬と、悪どい顔で追い詰めている森山を交互に見やり、笠松は首を傾げる。
「新妻寝取りごっこ」
「あー……、そっか」
「ちょ、何言ってんスか! 笠松センパイ引いてるじゃないっスか!」
あからさまに白けた目で見られて黄瀬が慌てる。が、未だ羽交い絞めにされた状態は続いていて為す術もない。笠松は手に持ったスコアシートをぱらぱらめくりながら小堀のところへ向かい、なにやら練習試合の結果について話しだしてしまった。
 あからさまにしょぼくれた黄瀬の様子をみて、森山はやれやれと腰に手を当てた。すこしいじめすぎてしまったかもしれない。見とれるほどの容姿にバスケ部のエース、という端から見れば高値の花であるはずの黄瀬だが、その実ついついいじめたくなってしまうほどからかい甲斐のある後輩なのだ。
「早川、もういいぞ」
「ッス!!」
「笠松せんぱ〜い!」
 開放されるなり「バッシュ買ったんで踏んで下さい!」と忠犬よろしく駈け出した黄瀬は、スコアシートから視線を外さないままの笠松にぞんざいに足を踏まれても嬉しそうに頬を紅潮させている。そんな様子を眺めながら森山はふっと笑み混じりのため息を零し、とりあえず「バッシュ踏み儀式」の二番手になるべく歩き出した。