7月29日の夜のこと

 昼間の猛暑の名残のせいか、頬に当たる空気は夜になっても生ぬるい。いつも夜走ることにしているからどうにも落ち着かない、走りたい、と駄々をこねる黄瀬を叱って宥めて妥協して、笠松は一緒に散歩に出かけたところだった。ホテルにこもっているより、外の空気を吸ったほうが気晴らしになるだろう。普段の厳しい練習に比べると運動量は多くはないかもしれないが、一試合まるまる出ずっぱりというのはやはり消耗する部分も多い。体力だけではなく、頭も、気持ち的な部分も。黄瀬がいつにもましてそわそわしているのも、試合での神経の昂ぶりを引きずっているからなのだろう。うちのエースはまだ一年生なのだ。
 ――インターハイ初戦を、海常は無事勝ち進んだ。
 そのことを喜びこそすれ、安堵した者はきっと自分しかいないだろう。笠松は罪悪感を覚える。
 今日の試合について思い返す。全国大会まで進んでくる学校はどこも強豪には違いないが、それでもキセキの世代を獲得している海常ならば順当に勝ち進むだろう、と思われている試合だった。そしてその予想通り海常は第二試合へと駒を進めた。けれど勝負において「順当に」などということはありえない。去年、過去最高のベストメンバーだとまで言われていたことを思い出して、苦い気持ちになる。
 けれど、そんな感傷に浸っている暇はない。明日は午前中に試合があり、勝ち進めばさらに次の試合が待っている。負けたらそこで終わりなのだ。
「センパイ」
 と、外に出てから打って変わって大人しくなっていた黄瀬が、アスファルトの上に落ちていた小石を軽く蹴り転がしながら口を開いた。
「オレ、今日ちょっと緊張してたんスよね」
「黄瀬が?」
「うわー、まるで信じてなさそうな顔! 別にいっスけど!」
「いやいや疑ってるわけじゃねーけど」
 話題が唐突だったのと、黄瀬がそういったことを自分から口にしたことに驚いただけだった。入部した頃は驕慢で扱いづらいやつという印象だった黄瀬だが、練習試合での一敗を機に笠松ですら目を見張るほど練習にのめり込み、今ではすっかり海常エースが板についてきた。些細なことで泣くしアホだしうるさいが、弱音はひとつも吐かず練習に打ち込む黄瀬がチームの士気を高めてくれているのも確かだ。
「中学ん時は余裕で連覇しちゃったから、全国とか慣れてるはずだったんスけどね」
「なんだそりゃイヤミか」
「いやー、帝光は何がどうひっくり返っても負けるはずなかったんで。オレがいなくても多分勝ってたし……でもウチは違うじゃないスか。オレが抜けたら多分、シンドイ」
「……悪かったな、帝光に劣るチームで」
「そーじゃなくて! てゆーかセンパイ昨日からなんか変っスよ!?」
「あ、悪い」
 つい棘のある言い方をしてしまった。笠松は頭をがしがしと掻いて、口の中で舌打ちをした。いつも通りチームを引っ張っているつもりだったのに、後輩に気持ちの乱れを指摘されてしまうのはキャプテンとして失態だ。で? と続きを促すと、黄瀬はうーんと言葉を選びながら、
「だからなんつーかオレも……ウチのチーム背負ってんだな、って思ったら手に力入っちゃって」
 と続けた。それから「エースが情けないっすけど」と苦笑したらしかった。隣に並んで歩いているので表情は伺えない。
確かに今日の試合、黄瀬の調子は極めてよかった。良すぎるほどに。けれどそういう時ほど気をつけなくてはいけないのだった。良い流れを壊さず、集中力を崩さず、適度にやわらかくしておかないと、どこかでほころびが出てしまう。チームを預かるキャプテンなのに、そういった変化にも気付かずにいる自分を笠松は恥じた。
 黄瀬はさっき蹴り転がした小石に追いついてもういちど蹴る。コン、ココンと小さな音を立てながら転がった石は、今度は電柱にぶつかって止まった。
「あ、猫!」
 転がった石の音に驚いた野良猫が、植え込みの影にさっと身を翻すのが見えた。びっくりさせてごめんね〜、としゃがみこんで話しかけている黄瀬の、街灯でいつもよりくすんだ金髪を眺めながら笠松はポケットの中に両手を突っ込んだ。もし黄瀬が海常に入らなかったら、自分たちはいまここへ来れただろうか。今年こそ必ずインターハイで優勝する、それだけを考えてここまでやってきたのに、結局のところ他のメンバーに、そしてまだ1年の黄瀬に頼らなければここまで来ることすらできなかったに違いない。たらればを想像しても仕方ないのはわかっているけれど。
「お前、なんで海常を選んだんだ?」
「え? んー……海常を選んだっていうか、逆っていうか」
 ちょいちょい、と伸ばした指を猫にむけて動かしながら、黄瀬は顔だけ笠松を振り返った。
「他にもいっぱいスカウトあったんじゃねえの?」
「あったっスよ。村野台とか玉堤とか…都内からもちょっと遠いとこからも、まあ」
 指折り数えながら黄瀬が口にした学校のうちいくつかは、笠松でも知っている全国区の強豪校だった。そのどこへ行っても充分活躍できるだろう、と納得する程度には。キセキの世代を獲得するということは、すなわち今後三年間の戦力を約束されたということだ。どこの学校だって欲しがるに決まっている。それにしても、予想以上に受けていたらしいスカウトの数に笠松は驚き、と同時に選び放題だったはずの黄瀬が、なぜ前年度インターハイで初戦敗退を喫した海常を選んだのかを疑問に思う。
「でも、どこもオレが欲しいわけじゃなかったんスよ」
「キセキの世代なら誰でもいい、ってか?」
「そういうとこもあったかも知れないっスね」
 いつのまにか構っていた猫は姿を消してしまい、あーあ、と溜息をつきながら黄瀬は立ち上がった。そして再び歩き出す。
「青峰っちその頃随分荒れてて、スカウトに来た監督たちをことごとく追っ払ってたんスよね。試合に勝てれば練習なんてしなくていいだろ、好きにさせろ、って」
「……そりゃまた厄介な」
「でしょ? そんでお鉢が回ってくるのがオレ、ってわけ。オレはキセキの中じゃ下っ端だったけど、青峰っちとはポジションも近かったし、まあ体のいい代わりっスよね」
 そんでオレが愛想よく挨拶するとそういう監督たち安心しきっちゃって、是非うちに来て欲しい、君の力が必要なんだーなんて言ってくるんスよ。本当は青峰が欲しいのに。笑っちゃうっスよね。
 黄瀬の視線が一瞬笠松の方を向き、ふっと足元へ落とされる。同意も否定もしがたい内容に相槌を打つこともできず、ただ笠松はその隣について足を進めた。あまり抑揚のつけない調子で語る黄瀬の声はいつもより数段おとなびていて、ああこいつ本当はこんな風にしゃべるのかとぼんやり思った。きゃんきゃん犬のように騒ぐ声も、試合のときの少し低く挑発する声もうそだというわけではないが、たぶん一番根っこに近いところの声なのだ、と思う。
「んで、最初にオレをくれ、って指名してきたのが海常だったってわけっス」
「監督が?」
「そう。初対面でなんかスッゲー性格悪そうな監督〜って思ったけど、話貰ったときにはじゃあ海常に行こうかな、ってほとんど即決だったんスよね」
「ぶは、性格悪そうってそれ監督に言ったら怒るぞ」
「チクんないでくださいよ!? んで、まあ、海常のエースになって……練習はキツイししょっぱなから負けるし散々だーと思ったりしたけど……、今は来てよかったって思ってるんスよ」
「そりゃ良かった。エースが他に目移り、なんて主将として見過ごせないからな」
 頭をかるく小突くと黄瀬は痛がるふりをして大げさに頭を抱えてみせた。黄瀬が入部してきた頃、そのあまりに華やかな才能を頼もしいと思うと同時に嫉妬もした自分が情けないな、と笠松は思う。もし自分にもそれだけの才能があったら、ここぞという場面でミスなんてしなくて済んだだろうに、なんてことが脳裏を何度も過ぎったのだ。彼の気持ちは何一つ考えないままに。
 出会ってからまだたったの三ヶ月、毎日のように時間を共にしていても知らないことがたくさんあるのは当たり前だ。よく考えてみれば、キセキの世代黄瀬涼太について、バスケ以外の部分を笠松はあまりよく知らないのだった。それは逆も同じことだ。キャプテンとしてインターハイで勝つことばかりが目的になっていて、そういったことを疎かにしてきてしまったのかもしれない、と今更ながら思う。
「なあ黄瀬、オレ実は今日誕生日だったんだ」
「…………はあ!?」
「ま、わざわざ祝う日でもねーけど、」
「ちょ、何で言ってくれなかったんスか!? っていうか森山センパイも小堀センパイも他のみんなもそんな素振り誰も、え!? マジっすか?」
「あー……あいつらはまあ、気を遣ってくれてんだよ。大会中だし……」
ちょうど1年前の敗退について、言うべきか言わざるべきか。一瞬躊躇った隙に黄瀬にがっしと腕を捕まれ、そのままずんずんと引きづられるように笠松はあとをついていった。
「ちょ、どこ行くんだよ!」
「コンビニ!」
 黄瀬の指さした先には確かにコンビニの明るい光がある。二人が今いる場所からは道路を挟んでちょうど反対側なので、笠松は気づいていなかった。横断歩道の信号が変わるのを待って道路を渡る。ついさっきまでの雰囲気を払拭するかのように軽快なメロディを鳴らしながら自動ドアが開いて、冷房のきいたすずしい店内になかば引きずり込まれるようにして入っていった。
「つーかお前財布持ってきてねーだろ」
「ポケットに500円玉入ってるんで。なんか飲むかもと思って……つーか先に言ってくれればもっと持ってきたのに」
「もっとって何だよ、別にオレは……」
「大会だからとかそう言うの関係なく、誕生日はいつだって誕生日なんだから、ちゃんとお祝いすべきっスよ!」
 黄瀬がそう言いながらてきぱきと甘味が並ぶ棚へと足を運び、そこに2つ入りのショートケーキのパックを見つけるとよかった、と嬉しそうに笑った。それと紙パックのお茶をひとつ買えばお釣りは1円玉が数枚しか戻って来ない。自分の食べたいものを買えばいいのにと笠松は思ったが、祝ってくれようとしているらしい黄瀬の手前、好意を無下にするのも申し訳なく、1つため息をつくだけに留めておいた。
 店の前のパーキングブロックに腰掛けて、フィルムを少しずつはがしながら手づかみでケーキを食べる。お茶は二人で回し飲みした。生ぬるい外の空気を感じながら食べるケーキはものすごくおいしいとは言いがたかったが、舌に感じる甘みが心地良い。
「てゆーかこんな時間にケーキ食べちゃった。ちゃんとカロリー消費しないと」
「女子かよ」
「ま、明日の試合勝って消費するっスけど。そんで、センパイ誕生日おめでとう」
「……ありがとな」
 練習を覗きにやってくる女子たちが見たら卒倒しそうだな、と思うほどやわらかく黄瀬は笑った。けれど口の端っこにクリームをつけたまま言うものだからいまいち決まらない。そんなちょっとばかりどんくさいエースの頭をわしっと片手で掴み、汗ばんで少ししっとりした髪の毛を笠松はぐしゃぐしゃとかき混ぜてやった。
「これ、他の奴らには内緒だからな」
「もちろん!」