いい子わるい子

 人事を尽くすということを緑間の生きる指標だというなら、赤司のそれは文字通り「正しくあること」ではないだろうか。本人がそう主張しているのを聞いたわけではないが、緑間から見る赤司は、常に正しいことを選び取ろうとするきらいがあった。そして結果、赤司のすることは必ずといっていいほど正しいことになる。
「勉学の調子はどうだい? 緑間」
 下校するため下駄箱からスニーカーを取り出した緑間は、向かいのクラスの下駄箱から同じように靴を取り出した赤司に声を掛けられ振り返った。並んで靴をはき、自然と一緒に昇降口を出る。試験期間はすべての部活動が試験休みになるので、せっかく試験最終日が終わっても週明けまでは部活ができないのだ。
「いつも通り人事は尽くしたのだよ。お前に心配されなくとも」
「なら良かった。すっかり息抜きが本業になってしまったからね」
 二年に進級し、赤司はバスケ部の主将になった。緑間は彼の指名で副主将になった。そうなれば練習の計画を立てたり、監督と部員の間に立ったりとそれなりの仕事は増える。けれど主だったことは大抵赤司がひとりで片付けてしまうので、副主将の立場がそれほど負担であるかと訊かれたら答えは否だった。少なくとも、赤司が緑間を気遣う台詞をわざわざ口にすることではない。
緑間をバスケットに誘ったのは赤司だった。
親同士の付き合いの関係で、ふたりは小学生になった頃すでに知り合っていた。といってもお互い子どもらしさにいささか欠けた子供同士だったので、する話といえば読んだ本のことぐらい、遊びといえばもっぱら二人きりでもできるボードゲームの類ばかりだった。意気投合するほど仲良くはならなかったが、騒がしい他の子どもたちと一緒にいるよりは気楽だったし、おそらく赤司のほうも同じように思っていたはずだ。
 だから「バスケをやってみないか?」と誘われた時、あまりの似つかわしくなさに何故だ、と疑問に思った。
 けれどやはり赤司は正しかった。赤司が言うなら物は試しだ、と始めたバスケットという競技は面白いほど緑間にしっくりと馴染み、それから数年経った今、二人は中学最強と謳われるチームの主将と副主将だ。ひょっとしたらこうなるということを、あの時の赤司は予見していたのではないだろうか。ともするとオカルトじみた話だけれど、緑間はたまにそう考えてしまう。なぜなら赤司はいつも正しいのだから。
「結果が楽しみだね」
「……ふん、随分と余裕だな」
「そんなことないさ。緑間だって相当勉強してきたようだし」
 お前はそれ以上だろう、と言いたかったが、ただの負け惜しみになりそうだ。
 試験の結果は、平常の授業が始まると順次返ってくる。科目ごとに見れば点数を上回ることはあるけれど、これまで一度も緑間は赤司に勝つことができたためしがなかった。けれどあきらめるつもりは毛頭ない。
「そうだ、週明けからの練習メニューについては昨日すこし相談した通り。監督にも報告しておいた」
「了解したのだよ」
「久々の練習ではしゃぐバカがいないと良いんだけど。まあ仕方ないか」
 そう言ってため息をつく様子は、とても同い年には見えないほど大人びて見える。身長も体格も緑間に劣っているし、誕生日だって遅いのに。昔から自然と人の前にたつタイプではあったが、最近の赤司はいささかやりすぎなようにも感じられた。自分がもし同じ立場だったら、人事はもちろん尽くすだろうが、きっと赤司のようにうまくはやれないだろう。
「……赤司、今日うちに来ないか?」
「どうしたんだい急に。別に試験も終わったし、これといった用事はないが……」
「父方の実家に用事があるといって、両親が明日まで不在なのだよ」
「緑間は行かなくていいのか?」
「子供が行っても仕方ないのだよ、ああいうのは」
「そうか」
 たいして考え込みもせず、赤司は「じゃあ行こう」と答え、すぐに携帯をカチカチと操作する。おそらく家に連絡を入れているのだろう。
 赤司のことを誘ったのはほんの気まぐれと偶然だった。たまたま家族が不在なこと、赤司と下駄箱で会ったこと。そして今日が部活動休止期間で試験も終わったあとという、ある意味なにごとにも縛られない数少ない日だからだ。
「何の準備もないけどこのままお邪魔していいのか?」
「構わないのだよ。服なら貸そう。……少しサイズが合わないかもしれないが」
「うるさいな。それで? 緑間が無計画に人を誘うとは思えないんだけど、何をするつもりなんだい?」
 赤司は首を傾げて緑間を見上げた。少なくともこれで、明日の朝までの赤司の時間は確保できた。中学に入ってからはほとんど毎日のように練習があり、二人で過ごす時間も主将副主将のミーティングが主になっていた。でも今日は違う。
「今日は正しくないことをするのだよ」


 *


 緑間の家についても特にすることはなく、外が暗くなるまで二人はひたすら将棋盤に向かい合った。「二枚落ちではじめようか?」という赤司の提案をはじめて緑間は受け入れ、それでも粘って粘ってやっとのところで投了させることに成功した。といってもこれは正当な勝負ではなく、ノーカウントにするのはお互い暗黙の了解だった。次は必ず平手で勝つのだよと緑間は言い、赤司は落とした飛車と角行を指先で弄びながら「そうだね」と答えた。それから緑間の母親が用意しておいた作りおきのシチューを二人で食べ、だらだらとあまりおもしろくないテレビを眺めた。しばらくしてから緑間は台所に立ち、二人のつかった食器を不慣れな手つきで洗い、片付けた。普段は家事の手伝いなどめったにしない緑間だが、家族は不在だし、赤司は客人だ。食器を洗い終えると、すっかり濡れてくたびれてしまったテーピングを外してゴミ箱に捨て、緑間は未だ制服を纏ったままだった二人ぶんの着替えを用意した。
「テーピングは巻き直さないのかい?」
「ああ。着替えろ赤司、出かけるぞ」
「もう夜だけど」
「そうだ。夜遊びなのだよ」
 練習の時に使っているTシャツとハーフパンツを赤司に放り投げ、緑間自身もその場で着替える。体格にやや差のある赤司にはサイズが大きく、緑間が履くとちょうどひざ丈になるハーフパンツは膝小僧がすっぽり隠れてしまう長さになった。それでもずり落ちてこないだけ上出来だというべきだろうか。
 ボールを持って家を出る。しばらく歩いた先の公園にはストリートのコートがあり、時間のせいかすでに他に人はいなくなっていた。繁華街に出るわけでもなく果たしてこれは夜遊びと呼べるものだろうか、と疑問に思ったが、普段ならばすでに入浴して寝る支度をしている時間だ。赤司にとってもイレギュラーには違いなかった。
 風でボールの軌道が逸れるのを嫌って、緑間は普段外のコートでは練習をしない。風の影響を考えてフォームに変な癖がついたら困るからだ。
 けれど相手がいるなら話は別だ。
 一対一の勝負は、先に緑間が一本シュートを決め、そのあとは三本連続で赤司が勝った。身長差の分緑間のほうが有利かといえばそう単純な話ではなく、赤司はまるで次にどの手がくるかわかっているかのような動きをする。ブロックをすり抜けるように放たれるフローターシュートには、ディフェンス力にも自信のある緑間でも思わず歯噛みさせられるほどなのだ。
 試験期間のあいだもボールに触ってはいたものの、本気で身体を動かす時間はなかった。だからついつい力も入る。ボールを奪われ奪い返し、そうしてやっと気がすんだ時には日付はとうに代わり、すっかり夜中になってしまっていた。
「もし見つかったら補導されるね」
「そうだな」
 シャツの袖口を引っ張って額を流れる汗を拭いながら、人っこひとりいない道を振り返って二人は声を潜めた。帝光中バスケ部の主将と副主将がなにか問題を起こしたら大変なことになるだろうな、と思う。実際にありえてはいけないことだけれど、それは不思議な背徳感のある想像だった。二人は一対一を切り上げて帰路につく。
 結局、今日の戦歴は25対19で、赤司の勝ちだ。けれど赤司は「今回は緑間はスリーを打たないハンデがあったから、オレの勝ちではないね」と笑みを浮かべて言う。「正当な勝負ではなかった」。
 帰りがけ、コンビニでカップ麺とスナック菓子を買った。こんな深夜に食べたら身体に悪そうだ、と赤司は苦い顔をしたが、今日はそもそもそういう日なのだ。
 帰宅するとすっかり空腹になっていて、二人はやかんでわかしたお湯でラーメンを食べ、それから緑間の部屋で布団にごろごろしながらポテトチップスをつまんだ。
「ああ、すっごく身体に悪そう」
 と、けれど楽しそうに赤司は言い、緑間は油分のこびりついた指先を舐めた。
 しばらくそのままぼうっとして、交代でシャワーを浴びる。寝間着も緑間のものを貸してやったのだが、こちらは袖もズボンの裾も何回か折り返さなくてはならず、赤司は不機嫌そうな顔を隠しもせず緑間の布団を陣取って寝転がる。客用の布団の用意はしていなかったので、今日は一組の布団で眠らなくてはならないのだ。もうすこし計画的にことを起こすべきだった、と眠る段になって緑間は思った。
 それにしても、こうしてみると、赤司はこんなに小さな男だっただろうか。
 ふと、緑間は赤司に顔を寄せた。くちびるが触れる直前、赤司の手のひらが緑間の口元を覆うように押し付けられ、瞑りかけた目を開く。メガネのレンズごしに、赤司のきれいな瞳の色がじっと緑間を覗き込んでいる。
「だめだよ」
「……何故?」
「それは間違ったことじゃないから。真太郎、」
 今日は正しくないことをするんだろう。そう諭すように言われて、緑間は戸惑った。間違ったことじゃないから。それは一体どういう意味だ?
 緑間はなにもそのままキスや、それ以上のことをしようとまで思っていたわけではない。そこまで考えてはいなかった。正しいばかりの赤司に、今日だけは正しくないことを教えてやろうと思っていただけで。けれど肯定される言葉をぶつけられて、じわじわと顔が熱くなってくるのを自覚する。
「赤司、」
「だから、こういうことは然るべきときにするべきだ」
「……そうか」
 しかし結局、やはり最後には赤司は正しいことをしてしまった。行為の当否を指摘したのは赤司だった。でも、といくつもの矛盾について緑間は考え込み、その眉間に寄ったしわを赤司が笑ったのでつられて苦笑した。やはりなにがどうあっても、まだ赤司には敵わないらしい。
「今日は楽しかったよ。いくつか解ったこともあるしね」
「……例えば何なのだよ」
「まず、夜遊びをするとずいぶん眠くなる」
「普段は寝ている時間だからな」
 ふわ、とあくびを噛み殺した赤司は壁に掛かっている時計を見やりながら頷いた。時刻はもうすぐ朝の3時になろうとしている。
「それから、オレは思いの外緑間に好かれているらしい」
 至って真面目な表情で言われ、緑間はいたたまれなくなった。なのに赤司は「それから、」と更に続きを口にするので、緑間はしどろもどろに口を挟むことしかできない。
「ま、まだあるのか」
「あるよ。オレも緑間のことを愛してるよ」
「そ、ういう言葉を、軽々しく言うもんじゃないのだよ」
「でも、他に形容する言葉が浮かばないんだ。家族に抱くものとも恋とも違うと思うし、」
「もう寝るのだよ!」
 半乾きの赤い頭まですっぽり覆うように布団を被せてしまえば、もう赤司の声はくぐもって聞こえない。どきどきと煩く鳴り響く胸を落ち着けるように撫でながら、緑間ははあ、と深いため息をついた。ミイラ取りがミイラになってしまった気分だ。
「緑間は寝ないのか?」
「……寝るのだよ」
 もぞ、と布団から顔を出した赤司はつい今しがたとんでもない発言をしたとは思えないほどいつも通りの様子だ。緑間は狭い布団の中に一緒に潜り込みながら、自身の敗北を認めざるを得なかった。
 狭い布団の中で抱き込んだ赤司はやっぱり緑間より二回りほど小さい。しばらく何を言うべきか迷った緑間がやっと「おやすみ」を言ったときにはもう、赤司は眠りについてしまっていた。目が覚めたらきっとまた、正しいばかりの大人びた少年に戻ってしまうだろうに。