#1

 4月1日、朝。
 枕元に置かれた携帯の音で目を覚ました宮地は、手探りで画面に触れた。
 それからしょぼしょぼする目を擦って瞬きを数度、まっさらな天井が目に入り、はて、と首を傾げる。毎朝最初に目に飛び込んでくるかわいらしいアイドルのポスターがない。
「うう……、あー……そうだ……」
 寝ぼけ眼で部屋をぐるりと見渡しながら身体を起こし、昨晩からやっと本格的に住み始めた部屋のことを思い出した。秀徳高校を卒業し、晴れて大学生になったのだ。入学式はまだ明日だけれど。部屋にあるのは必要最低限の家具たちと、壁に掛けられた真新しいスーツ。上の階の住人の足音がかすかに聞こえてくるが、それ以外は至って静かだ。
 起こしに来る親もいない、近所になにがあるかもよく知らない、越してきたばかりの新居もまだ生活し慣れていない。ないないづくしだ。


 宮地の通うことになった大学は、実家からだと片道に2時間ほどかかる場所にある。決して通えない距離ではないし、家事を自分でしなくてはならないことを考えると一人暮らしがどうしてもしたいわけでもなかった。それに学生の身ではバイトをしても家賃と生活費全ては賄えないかもしれないし、学費だけでも結構な額が掛かることを知っていたので少しは親に遠慮する気持ちもあった――のだけれど。
「家事ぐらい満足に出来るようになりなさい! 自立しろ!」
 という、やや久しぶりに顔を合わせた姉の一声で、新生活の行方はあっさりと決まったのだった。
 年の離れた姉はすでに実家を出ているのだが、こちらも住んでいる場所は2時間ほどの距離にあり、時折週末に帰ってきてはだらだらと気ままに休みを満喫していくのが常だった。子供の頃は大喧嘩もたくさんしたがそれも昔のこと、今ではそこそこ仲良くやっていると言えなくもない。
 その姉いわく、付き合っていた彼氏の生活能力があまりにも低く嫌気がさして別れた、男だからって何でも女がやってくれると思ったら大間違い、彼女は家政婦じゃないんだからクソ野郎。要約するとそのようなことをグチグチ言い終えた姉は、「必要なら私も少しは仕送りするからあんたはまともな男になってくれ」とまで言い、本当にうんざりした様子で溜息をついたのだった。どうやら相当ストレスが溜まっていたらしい。
 とはいえ、大学までの通学時間が大幅に短縮されるのは喜ばしい。
 ひとまず今日は買い出しと明日の用意だ。携帯の画面を見た宮地は、既に時刻が昼過ぎを示しているのを見て顔をしかめた。
 特に誰と会う予定もなかったのでアラームをかけずに寝たのだが、誰にも起こされないからといってさすがにこれは寝すぎだろう。明日からはきちんと目覚ましをかけようと決める。受験と春休みとでしばらくバスケをしていなかったせいか、すっかり身体がなまっているようだ。現役の頃は休みの日でもきちんと朝早く目が覚めていたのに。
「うわ、なんかメールすげえ溜まってる……」
 一番上に表示されているのはアイドルグループのメルマガだった。どうやらこの着信音で目を覚ましたらしい。このまま夕方まで寝潰さなくて済んでよかった、宮地の天使は今日も天使らしい。
 けれどその下に続く名前があまりに予想外だった。
 用事もなく連絡を寄越してくるはずがない、高校時代の部活の後輩。その名前がいくつも並んでいるものだから、一体なにかトラブルでもあったのかと心配になりながら最初のメールを開いた。

《お久しぶりです。エイプリルフールですね》

 いわくエイプリルフールというのは午前中にうそをつき、午後にそのねたばらしを楽しむのが流儀らしい。一通目はまるでウィキペディアでも引っ張ってきたのか、というほど生真面目な説明文だ。それに宮地だって、エイプリルフールがそういうイベントだということは既に知っている。少なくともやや常識を逸脱している節のある緑間よりは。

《そういうわけなので、午前中のうちにいくつか嘘をつきます。》

 そういうわけってどういうわけだ、と画面に向かって呟きながら次のメールをタップする。と、ぱっと切り替わった画面にいきなり現れた文字に宮地は狼狽え、ひっ、だかふっ、だかよくわからない声を上げてしまった。ここが一人きりの部屋でよかった、と初めて思う。
 あなたが好きです。
 一行にも満たないメールのせいで、じわじわと頬に熱が溜まっていく。さんざん嘘だと前振りされているにも関わらずだ。相手が冗談など露ほども好まなさそうな堅物、というイメージに塗り固められているせいかもしれない。緑間は2つ学年が下なので、元チームメイトとはいえ共に過ごした時間は決して多くない。レギュラー同士なので他の下級生たちと比べるとかなり密な関係だったとは思うし、宮地は少なからず好意を抱いてはいたが――これは緑間真太郎という男のやたら強い存在感のせいで他意はない――先輩と後輩、という関係の域を出るものではなかった。
 けれど、これは緑間に対する認識を改めねばならないようだ。少なくとも冗談は言えるタマらしい。
 次のメールは打って変わって、そこそこ長い文章が画面を占めている。
 内容はほぼ部活に関することだった。他の先輩たちと揉めたときそれとなく仲裁に入ってくれた礼を言いそびれただの、大学でもバスケを続けるなら頑張ってくださいだの、高尾に言わせれば「デレ」の大放出だ。そしてさらにやっかいなことに、これらの全てが嘘のつもりで書かれたものではない、ということを宮地は察している。その程度には、緑間が素直でなく偏屈でわがままで、そのくせ情に厚い男だということを知っているのだ。
「つーか、卒業する前に言っとけよこういうのはよぉ……」
 こんな内容を卒業式に面と向かって言われたら、宮地だってきっと本気で泣いただろう。いや、だからこそメールで良かったのだろうか。
 溜まっていた5通のメールに全て目を通す頃にはすっかり目が覚めていて、じわじわと羞恥に似た気持ちだけが残った。仕返しをしたいと思ったが、いかんせん時刻はもう午後になってしまっている。そして緑間が解説してくれた通りならば、これからねたばらしが待っている。既に嘘だと知ってはいるけれど、この場合どれが嘘でどれが本当か、という解説編といったところだろう。
「……やべ、買い出しいかねーと」
 うかうかしているとあっという間に夕方だ。寝癖のついた頭を手櫛で直しながら、宮地はベッドから立ち上がりまだ使い慣れない洗面所に立った。履修登録とサークルが少し落ち着いたら高校にも顔を出してやろう、と思いながら。
 結局その日、それ以上のメールが緑間から届くことはなかった。