#3

「…………んん、」
 目が覚めて真っ先に携帯に手が伸びてしまうのは、ここ2年でついた習慣のようなものだ。4月初めの日限定だけれど。
 ところがいつもは枕元にある携帯が見当たらない。しょぼしょぼする目を擦りながらなんとか開くと、床の上に落ちているのが見えた。充電コードにも繋がれていない。ベッドに寝そべったまま手を伸ばすと指先がなんとか届いたのでちょいちょいと引き寄せ持ち上げた。たかだか150グラムにも満たないものなのに、なんだかいつもより重たく感じる。
「あ?」
 あるはずの新着メールの文字が見当たらない。ホーム画面に表示された日付けはきちんと4月1日の、それも午後である時間を示しているというのに。
 それを残念だと思う前に、むくむくと沸き上がってきたのは苛立ちだった。なぜならつい2週間ほど前に、宮地は付き合っていた彼女と別れていたからだ。宮地とは別の女子大に通う、一つ年上の、けれどかわいいところのある人だった。家事をちゃんとしてるの偉いね、と部屋に遊びに来たとき感心されて、ああやっぱり姉の言うことは正しかったなんて思いながら一緒に食事の支度をしてみたり、それなりに上手くやっていた彼女だったのに。
 理不尽だと言われようが一発殴らないと気が済まない、と苛立ちのまま飛び起きようとした宮地は身体に走った衝撃に声にならない声を上げ、枕に顔を突っ伏した。
「……っ、!? う、っ、てえ……」
 目をぱちぱちと瞬かせ、ずきずきと痛む腰に手のひらを当てた。直接肌に触れたついでに、どうやら自分はいつも寝間着にしているスウェットも着ていないことを知る。辛うじて下着はつけていたが、今問題なのはそんなことではなかった。
 順を追って思い返していくごとに、ますます埋まりたくなっていく。けれど生憎ここは埋まるのにちょうどいい砂浜でも公園の砂場でもなくベッドの上で、ぐりぐりと顔を枕に押し付けるに留まってしまう。最低だ、と宮地はあえて口に出してみる。最低だ。

 緑間と会うのは3か月ぶりだった。
 最後に会ったのはウインターカップの時だ。全国大会はなるべく見に行ってやろうと思っていたのもあり、大坪や木村と連れ立って激励ついでに顔を出してやったのだ。元キセキの世代が最上級生になった高校バスケは未だかつてないほどの盛り上がりを見せていて、つい2年前は自分も選手側だったんだと思うとなかなか感慨深いものもあったし、下っ端だったはずの緑間と高尾が率いる秀徳バスケ部の頼もしい姿を見るのはこそばゆい気持ちがした。
 そして彼らにとって高校最後の大会が終わるとすぐ受験シーズンになり、それぞれ人事を尽くし終えたのであろう3月のはじめ。
 大学に受かりました。というシンプルな報告メールが、宮地の携帯を震わせたのだった。
 学部こそ違えど、緑間はどうやら同じ大学に進学してくるらしい。といっても大学は広く他の学部と関わることは教養系の講義以外ではほとんどない。おまけに緑間は医学部だ。けれど宮地の通うキャンパスと医学部のそれは隣り合って建っているので、距離的にはまあ、近所になるようだった。
 連絡事項ではなく、エイプリルフールの件のメールではなく、普通のやりとりをするのはおそらくそれが初めてだった。
 ずっと気になっていた。というより、一向にねたばらしをしてこない緑間に腹が立っていた。だから今年こと逃げられないようにしてやろうと思い、家に来るよう誘ったのだった。いつも夜中の眠っている間にメールを寄越してくるんだから、31日の夜から4月1日の昼過ぎまでの約束で。
 それからというものの、そのことばかりが妙に気になっていたのは事実で、ひょっとしたらそれが変に態度に現れてしまっていたのが原因かもしれない。春休みを満喫しつつデートをしていた彼女に別れようかと言われ、どういうわけかあまりゴネて引き止める気になれず、そのまま別れてしまったのは。
 つまり緑間のせいだ。
 誰がなんと言おうと緑間のせいだ。
 だから今年こそそのくだらない嘘をやめさせて、2年分きっちり責任を取らせてやる。それから轢いて煮て焼いて埋めてやる。そう心に決めたのだ。

 ――それが、何をどうしてこうなった。
 きちんとした服装に着替える気になれず、のろのろと素肌にスウェットを着こむ。身動きするたび身体が軋むようで文句を言ってやりたかったのに、その原因となった男はどうやら既に部屋にいないらしかった。いつもどおり静かで、上の階の住人の足音がかすかに聞こえるだけの部屋。
「最低すぎんだろ……」
 1年も前のメールを引っ張りだし返信ボタンを押す。しね。変換するのも億劫でそのまま送信をタップした瞬間、玄関のドアが音を立てて開いて飛び上がった。
「うわあああ、っ!?」
「……宮地さん?」
 片手にビニール袋を持った緑間がメガネの奥で目を丸くしている。半端に開いたままのドアから上がり込んで靴を脱いでいる様子を見ながら、驚いたあまりどきどきとおちつかない心臓の上に手を当てた。緑間はポケットから自分の携帯を取り出して一瞬顔を顰める。たったいま宮地が送りつけたメールだろう。
「起きたんですか」
「起きたんですかってテメー……」
「宮地さんが寝こけていたせいでもう午後ですよ。おにぎり食べます?」
 どうやら今買ってきたものらしい。おしるこ、緑茶、おにぎり(鮭)、おにぎり(焼きたらこ)、サンドイッチ(たまごとツナ)、かにぱん(チョコがけ)、それから袋入りのキャラメル。テーブルの上に並べられていくのを見ながら、その統一感のなさにいっそ毒気が抜けるような気がしてくる。
「あー、もー、お前なんなの……お茶寄越せ」
「はい」
「開けろ」
「はい」
 キャップを緩めたペットボトルを手渡され、ごくごくと喉を鳴らして半分ほどを一気に飲み干す。そうすると今更、喉がひどく乾いていることに気付いた。
「で、午後なんだけど?」
「そうですね」
「お前、マジ今日という今日はきっちり終わらすまで帰さねーから」
 言うことあんだろーが、とやや湿った声で言うと、緑間は「困りました」と答えた。緑間がまたしても後輩になるということは、つまり入学式を明日に控えているということだ。これからまだ準備しなくてはならないこともあるだろう。けれどそれとこれとは別だ。はぐらかして帰ろうなんて100年早い。
 宮地はサンドイッチの袋を破ってたまごが挟んである方にかぶりついた。緑間は今更そわそわしはじめ、落ち着きなく正座をしている。引き伸ばせば伸ばすほど不利になるということに気付かなかった――それはまあお互い様だけれど――罰だ、と思い、向けられる視線をすべて黙殺しながら宮地はほんの少しだけ溜飲を下げた。