君を君たらしめるもの

 かずなりー、と名前を呼ぶ声が高尾の意識を浮上させた。
 最初にまともな働きを取り戻したのは聴覚で、まだ身体は鉛のように重たい。聞こえてきたのは廊下をぱたぱたと歩くスリッパの音ともう一度名前を呼ぶ母親の声で、高尾は「なにー」とややむりやり声をしぼり出した。眠っていてのどが渇いているせいで、少し気張らないと部屋の外まできちんと返事は届かないだろう。
 そうしてなんとか瞼をこじ開けてみると、部屋はすでに薄暗くなっていた。夕方だろうか。
 高校に入学してから初めて高尾は学校を休んでいる。どこかで貰ってきてしまったのか、昨晩から変に熱ばかりがでる風邪を引いてしまったためだ。中学時代からほとんど毎日バスケ漬けの生活をしていれば体力は自然と人一倍つき、そのおかげか真冬でもあまり風邪を引いたことがないのに珍しいことだ。学校に出たら緑間に「体調管理がなってないのだよ。第一オマエは……」とくどくど嫌味を言われるに違いない。練習も休んでしまったので、ひょっとしたら先輩たちにも。
 布団に埋もれたままもう一度眠りそうになる意識は、ドアをノックされる音で再び引き戻された。さっきの返事はどうやら聞こえていなかったようで、和成寝てるの、と尋ねられる。もう一度出来うるだけ大きな声で「おーきーてーるーよー」と応えるとドアが開けられる音がして、のろのろ布団から顔をあげた高尾はぎゃっと思わず声をあげた。
「し、真ちゃん!?」
 部屋の入り口に立っていたのは高尾の母親と、制服姿の緑間だった。緑間は相変わらずの長身で、頭をぶつけないようすこし身をかがめて部屋の中に足を踏み入れる。
「緑間くんインスタントしかないけど紅茶でいい?」
「いえ、すぐお暇するのでお気遣いなく」
「そう? じゃあごゆっくり」
 目の前で交わされる会話に目を白黒させつつ高尾はあわてて起きあがった。寝起きなので一瞬頭がくらりとしたけれど、そんなことにかまってはいられない。
「寝ていろ病人」
「や、オレ熱出してもわりと意識ハッキリしてるタイプだし……っていうか、そうじゃなくて、真ちゃんどしたの」
 枕元に置いてあった目覚まし時計を見ると、やっぱり時間は夕方だった。制服姿の緑間はきっと学校帰りなのだろう。けれどいつもなら校舎が施錠されるギリギリまで自主練をしているはずの緑間がこの時間にここにいるということは、今日は通常メニューだけで帰ってきてしまったのだろうか。そんなことがあるのか? とやや半信半疑で高尾は首を傾げる。ひょっとしてこれは夢なんじゃないだろうか。
「何を呆けているんだ、聞いているのか」
「ふぎゃ! いや、なんかびっくりしちゃって……」
 冷却シートを貼った額の上から食らったデコピンはちゃんと痛い。
 まさかあの真ちゃんが、放っておけば昼も夜もなくシュート練習ばかりしているような緑間真太郎が、たった一日学校を欠席したクラスメイト兼相棒――ただのチームメイト以上の存在ではあると思う、いや、あってほしい――を心配して見舞いにきてくれるなんて。明日は空からラッキーアイテムが降ってくるかもしれない。頼むからなまことかホヤとか、変なものがラッキーアイテムになりませんように、と高尾は驚きのあまりばかげたことを考えてしまった。
 緑間は釘を刺すかのように「用事はあるのだよ」と言いながら、鞄の中からスポーツ用品のパンフレットを取り出すとベッドの隅に腰を下ろした。その距離の近さに高尾が動揺するまもなく、テーピングを巻いた指先がぺらぺらと薄っぺらいページをめくっていく。
「今日、新しいタイマーを買うことになった。ついでにボールをいくつか入れ換えるのと、揃いで新しいバスパンを発注しようという話になって」
 この紺色の、と緑間の指さした先を見た。
 普段の練習は動きやすい格好ならなんでも構わないことになっている。試合の時のユニフォーム以外はそれぞれ用意したTシャツにハーフパンツを着ているのだが、部員皆で揃えて買うならそれもいいんじゃないかと高尾は頷いた。
 というよりも、まだ一年の高尾に決定権があるわけでもないし、メールかなにかであとから報告してくれれば構わないことなのに。プレーに関することなら先輩相手でもあれこれ口を出すけれど、高尾がそれなりにチームの和を重んじていることは緑間も知っているはずだ。それから気になることはもうひとつ。
「つーかそもそもタイマーって別に買う必要なくね?」
 確かに使い込まれたボールはいくつかすべりやすくなっていたけれど、タイマーはそういくつも必要なものではない。そして高尾の記憶では、年季のこもった備品が多い秀徳バスケ部の中では、比較的新しいものだったような。
「…………壊れたのだよ。今日」
「えっ? なんでまた急に」
「ボールをぶつけた」
「ええっ、まさか真ちゃんが!?」
 いつもコートの隅に置いているタイマーを、いったい何をどうすれば壊すことができるんだろう。そもそも、普通にボールをぶつけたぐらいでは壊れない程度に頑丈なのは普段の練習で証明済みである。緑間の長距離スリーを直撃でもさせない限り無理そうだ、と考え、その様子を想像した高尾は思わずぶはっと吹き出した。そしてその予想はおそらく間違っていなかったらしく、緑間はばつの悪そうな顔をして、
「だから調子が悪かったのだと言っただろう」
 とふてくされた様子で眼鏡のブリッジを押し上げた。
 どうやら今日欠席してしまったのは失敗だったらしい。世にも珍しい緑間の絶不調を見損ねてしまったのは惜しいことをした、と高尾は自身の失態を悔やんだ。そしてわざわざメールでも済む用事を引っ提げて相棒に会いにくる程度には、緑間は落ち込んでいるらしい。何があったか根ほり葉ほり聞いてやりたい気持ちがこみ上げてきたけれど、むやみにつついて蛇を出すのも本意ではない。
 とはいえ用件らしい話が済んでしまうと、とたんに話すことはなくなってしまう。
 一日寝て過ごしてしまったせいで面白そうな話題もなく、あっというまに沈黙の時間は続いていく。いつもしゃべるのは高尾の役目で、緑間は聞いているのかいないのかわからないような態度でいることが多いのだ。どうしたものか迷っていると、「そういえば」と先に口を割ったのは緑間のほうだった。
「そういえば、おまえの名前は和成というんだったな」
「へ? なんでまた急に」
「さっき高尾の母親が呼んでいるのを聞いて思い出したのだよ」
「ああ、……つーかおまえまさか今まで知らなかったのか!? クラスも一緒なのに!?」
「知ってはいるのだよ。ただ忘れていただけで」
「いやそれ、……まあいーけどさあ」
 そういえば高校では、高尾のことをファーストネームで呼ぶ人はまだいない。かずなり、より、たかお、の方が短くて言いやすいのも理由の一つかもしれない。中学時代も、思い返してみれば男女共に高尾と呼ばれることのほうが多かった。
「今日、調理実習の日だっただろう」
 話す時はやや理詰めにしてくる節のある緑間にしては珍しく、ころりと話題が変わる。高尾は内心驚きながらも、今日あるはずだった時間割を思い出し頷いた。
「あー……実習休んじったのマズいかね。もっかいぐらいあったっけ?」
「来月もう一度ある。それで、……オレは料理がダメだから、それも散々だったのだよ」
「…………あー……」
 高尾は同じ班である他のクラスメイトの面々を思いだし、休んでごめんな、と心の中で謝罪をした。
 緑間の自称苦手なことは料理である、というのは世間話のひとつとして聞いたことがある。けれど勉強もスポーツもそつなくこなす緑間のことだから、「出来る」に値するレベルが高すぎるのではないか――苦手だと言いつつ実は人並み以上にできてしまうのではないか、と思っていたのだが。大切な備品であるタイマーを壊したことと同列になるほどひどかったのか。
 閉じて手に持っていた冊子を緑間が取り上げてカバンの中に仕舞い込んだ。それから携帯を取り出し、先輩に了承の旨伝えておくのだよ、とテーピングをした指でメールを打ち始める。利き手の指すべてに施されたテーピングは、書き物をしたり携帯をいじったりするときにとても不便そうだ。本人はすっかり慣れた様子で、むしろしていないと落ち着かないらしい。それで、と緑間は言いながら、用件を済ませた携帯をぱちんと折り畳み制服のポケットにしまう。
「それで、高尾がいたら何とか上手くやってくれただろうと思って」
「うん」
「なるほど名は体を現すとはよく言ったものだと」
「うん?」
「カズナリは和を成す、と書くだろう。おまえに誂えたような名前だと思ったのだよ」
「……えーっと、さいですか……」
 なにやら話題がおかしな方向へ向かったぞ? と思いつつ、高尾はただ頷くことしかできない。
「しかし名前の方が先にあるものだから、名前がおまえに見合っているのではなく、おまえが名前に合うように成長したというべきなのだろうか?」
「ウーンどっちだろうね……卵か鶏かぐらいどうでもいいとオレは思うけどね」
 しどろもどろになりながら答えると、緑間は不思議そうに片眉を持ち上げた。これだから天然様は困る、自分がどれだけ恥ずかしいセリフを吐いているのか気づいていないのだから。
「……真ちゃん、今日は随分饒舌だけどどうしちゃったの」
「今日の蟹座の運勢は、思ったことを口に出すほうがよいとあったのだよ。ただオマエが欠席したせいで散々だったから今日の運気を取り戻しているだけだ」
 動き足りない分これからロードワークに出るからな、と言いながら緑間は高尾の部屋の時計を見た。秀徳の普段の練習メニューだけでも運動量は相当なもので、耐え切れずやめていく部員も少なくはない。たまには少し休んだらいいのに、削れた自主練のぶんをきちんと取り戻そうとする姿勢に高尾はますます感服するばかりだ。
 高尾とてバスケット選手としては申し分ない――と言うのは過大評価かもしれないが――ポイントガードとしては最上の瞳を持ち体力だって並の部員以上にある。練習だって緑間と同じ、いや、それ以上の量をこなすと決め守ってはいるのだ。けれど緑間の練習量についていくのは厳しくて、無様な様相を晒してしまったことは何度もある。そして今日休んでしまった分は、当然これから取り戻していかなくてはならない。そのことを考えるといまからうんざりするが、決めたことは決めたこと、とにかくやるしかないのだ。たとえ客観的に見て緑間の「相棒」の位置に収まっていようとも、妥協してはいけないし、まだまだ足りないのは承知の上なのだ。
 バッグを手にとった緑間は、思い出したように中から缶をふたつ取り出した。いつも飲んでいるおしるこより二回りほど大きい。
「あとこれは見舞いだ」
「おお、サンキュ……って桃缶? なんで? 汁粉よりはいいけど」
「? 風邪を引いたら桃だろう? でも黄桃と白桃どちらが好みかはわからなかったのだよ」
 風邪を引いたら桃缶なんて漫画かアニメの世界の話だと思ってた! と笑う高尾の頭上にゴン、と缶のふちが当てられる。たいして痛くなかったのは手加減してくれたのだろう。
「……ちなみに真ちゃん的には?」
「オレは黄桃の方が好みだ」
「じゃあオレもそっちがいいな」
 手のひらに落とされた缶は思いの外重たく、少しひんやりとしている。
 緑間から与えられたそれを高尾は嬉しく思った。ちょっとこっ恥ずかしさが過ぎるけれど、かけられた言葉も。けれど物足りなく感じてしまうのは、高尾が彼と同じラインに立っていたいと思うがゆえの意地のようなものだ。
 高尾がうれしく思う以上のものを、高尾は緑間に返したい。桃の代わりにはボールを。けれど残念ながら今日の高尾はどちらも持ちあわせがないので、お返しは明日以降に持ち越しになってしまった。
 だから覚えてろよ、と高尾が言うと、ベッドから腰を浮かせた緑間は不思議そうに首を傾げた。