約束をやぶりたい【前】

 高尾和成と緑間真太郎がお付き合いを始めるにあたって定めたルールは、「別れる時はきちんと話し合って双方合意のもと」という、なんとも高校生らしからぬものであった。

 理由は単純だ。二人は相棒同士だからである。


 高尾と緑間は都内屈指の古豪である秀徳高校バスケットボール部の、それも1年にしてレギュラー入りを果たしている二人である。秀徳高校は厳格さを伺わせる校風であり、加えて都内屈指の古豪バスケ部ともなればなおのことだ。スポーツ選手には当たり前のことだけれど、喧嘩や揉めごとはご法度だし、血反吐が出そうな練習の傍らでも勉学を疎かにすることは許されない。とはいえ部内に恋愛にかかわる決まりまであるわけではない。けれどもしもふたりの関係が悪い方向にこじれたとき、それを絶対に部活内に持ち込んではならないことは重々承知の上だった。
 二人は相棒同士だからである。
特にバスケはチーム力が試されるスポーツだ。個々のフィジカルの強さや技術はもちろんだが、速いスピードで進む試合の中では集中力と互いの信頼関係が大切なのは言うまでもない。だからそういうときはできるだけお互い納得して、後腐れのないようにしよう、というわけだ。
高尾の提案を緑間ははじめ不思議そうな顔で聞いていたが、なによりバスケを大事にしている彼は理由を話すと納得し、じゃあそうするのだよ、よろしく、と頷いたのだった。
 けれど高尾にとってそれは建前で――もちろん高尾にとってもバスケはなにより大切だし、自分たちの色恋云々で先輩たちに迷惑をかけたくないとも思っているのは事実なのだが――本音はもうひとつ別の場所にあった。
「真ちゃん部活いこー!」
「待て高尾、おい、バッシュを忘れているのだよ」
「あっ」
「まったく……お前はいつもそそっかしすぎるのだよ」
 号令をかけ終わるなりスポーツバッグを肩に掛け立ち上がった高尾に、緑間は眉間にしわを寄せながら指摘する。そして高尾の机の脇にかけてあったシューズケースを手にとった。普段は部室のロッカーに置いているバッシュだが、今日は新調したものを持ってきていたのだ。今日は朝練がなかったので休み時間のうちに自慢して、高尾はそのまますっかり忘れてしまっていた。
「あんがと」
「バッシュを忘れて行ったら宮地先輩に轢かれるのだよ」
「ははっ、真ちゃんのお陰で死なずに済んだわ!」
 並んで教室を出る。廊下を歩きながら高尾はにまにまと頬をゆるめ、緑間は理由もなく笑うなと刺々しく指摘する。
 笑う理由ならいくらでもある。高尾の話はたいてい興味がなさそうに聞き流しているくせに、バッシュを置き忘れていることに真っ先に気づいてくれたこととか。当たり前のように一緒に行動してくれることだとか。
 同じクラスで席は前後、おまけに同じ部活のレギュラー同士、とくれば学校にいる時間のほとんどを一緒に過ごすことができる。これだけ一緒にいれば否応なく愛着もわくだろうし、共有するものも多くなる。そういえばこの間のアレ、なんて話し出しで何のことだかわかったりするのは、きっと他の相手とでは成立しないだろう。
「真ちゃんオレのバッシュあとで踏んでね!新品だし」
「……迷信に過ぎないのだよ」
「それでもいーの。験担ぎってやつ? お前が毎日してるソレと一緒だろ」
 今日のラッキーアイテムであるレンチを指さしてやると、緑間は渋々といった様子で、けれど大仰に頷いた。そんなものをラッキーアイテムに指定してくるおは朝も大概どうかと思うけれど、人事を尽くしてだいぶいかついレンチを用意してくる緑間も緑間だ。190センチ以上のタッパがある体格のいい男がそんなものを持っていたら正直怖い。今日だって、通りすがりに緑間を見た他のクラスの奴らがぎょっとしているところを何度も見かけたのだ。もっとも、持っている当人のことをよく知っている高尾にとっては可愛くて仕方のない様子なのだけれど。
 シューズケースをぶらぶら揺らしながら目的地に辿り着く。
 高尾は「ちわす!」と部室中に聞こえる大きさで言いながら、部室のドアを開けた。



 通常の練習メニューを終え、自主練にいつも最後まで残るのは緑間と高尾の二人になることが多い。最近やっと二人にも鍵の管理が認められ、三年レギュラーの先輩たちが不在の時でも校舎が完全に施錠される前までは体育館を使うことを認められたためだ。
 三年生はどうやら実力テストが近いらしく、今日は先輩たちも早めに練習を切り上げている。人のはけた体育館は二人で使うには贅沢で、けれど緑間の長距離シュートにはもってこいだ。他の部員がいるうちはコート全面を使う距離でのシュート練習はなかなかできない。高尾は緑間の邪魔にならないよう、彼が使っているのと反対側のゴール下を使っていたところだった。
「高尾、ちょっといいか」
「ん? いーけど……なに?」
 センターラインから数歩うしろ、もうほとんど敵陣のフリースローラインに近い位置からシュートを売っていた緑間が振り返る。もちろん放ったシュートはすがすがしいほどスウィッシュに決まった。
 高尾はきゅっとわずかに心臓が縮こまったのを感じ、それをおくびにも出さぬようTシャツの首元を引っ張りあげ汗を拭った。キュッとバッシュの音を立て緑間に向き直る。
「先週の練習試合の時思ったんだが、トップスピンをかけたパスを出すときはもう少しだけ手前に……どうした高尾?」
「えっ? いや、なんでもねーけど!?」
「……とりあえずパスをよこすのだよ」
「はいはーい! 仰せのままに」
 緑間のそばにあったボールカゴを移動させて、少し離れた位置からバウンズパスを出す。言われた通り回転は強めに、少し鋭い軌道で、でも距離はいつもより詰め気味に。
 集中しろ、と高尾は自身に言い聞かせる。
 高尾のパスを受け取った緑間はそのままシュートモーションに入る。常日頃から立ち居振る舞いの綺麗な緑間は、シュートフォームも例に漏れずきれいだ。それこそ試合中でなければいくらでも見蕩れてしまえるほどに。
「もう一本」
「はいよ!」
 望まれる通りに調整しながら高尾はパスを出す。何度も繰り返していくうちに少しずつもやのかかったような不安は薄れ、高尾はほっと胸を撫で下ろした。
 ――大丈夫、まだ真ちゃんは、オレのことを好きでいてくれてる。
 緑間はまっすぐな物言いをするけれど、どちらかといえばあまり自身の考えや気持ちを表現するのが苦手な性格をしている。反対に、自分の口がよくまわる方であることは高尾自身が一番よく知っている。実際口喧嘩をしたときはなんだかんだと高尾が丸め込むことだって多いのだ。そういうとき緑間は無言で拗ねてしまうので、最終的に折れてやるのは高尾のほうになるのだけれど。
 だからもしもうやめよう、と言われた時でも、きっとなんだかんだ上手い理由をつけて引き止めることができるんじゃないか、なんて。そんなずるいことを考えてしまった自分が厭だと思う。緑間に言葉を掛けられるたび「その時がきたんじゃないか」と思ってしまうのは、だから、自業自得なのだ。それでもなお繋ぎ止める手段の一つを残しておきたい、だなんて本当に馬鹿げている。