約束をやぶりたい【後】

 緑間が何かにつけて言う「バカめ」はもはや口癖のようなものだ。
 そして、今もっとも高尾に言ってやりたい言葉である。
 相棒兼恋人に向けるにはやや辛辣な言葉かもしれないが、そのぐらいでちょうどいいと緑間は思っている。むしろその程度では全然足りないぐらいなのだ。

 どういうわけだか不思議なルールを――緑間には他の誰かとの交際経験がなかったので、それがポピュラーな決め事か否かの判断は主観によるものだが――定めた高尾との付き合いは、表面上つつがなく続いている。表面上は。そもそも付き合い始めるにあたって別れ話について相談するのは本末転倒なんじゃないか、と緑間は思うのだ。それでもそれが必要なことだと思うのならばすればいい。そもそも緑間は別れる予定のある相手と付き合う気などないので、はじめから無駄なことこの上ないとは思うのだが。
「真ちゃーん、ボールもうねえからちょっと休憩な!」
「……了解なのだよ」
 ふと気づけばゴール下周辺にはたくさんのボールが散らばっていて、高尾は空っぽになってしまったカゴを指さしている。緑間はキャスターのついたカゴを引いてボールを拾いに行き、高尾はコートの外においてあったペットボトルの水をあおった。ボールのはずむ音が消えてしまうと、二人しかいない体育館はとても静かだ。
 時間的に、もう一周シューティングをし終えたら今日の練習は切り上げよう。そう緑間は決めてカゴの中にボールを放り込んでいく。空になったペットボトルを再び床に置いて、高尾も手首を回しながらゴール下にやってきた。
「大丈夫か?」
「ん? ああ全然ヘーキ、なんつーか手応え掴めてきてるし」
 ピースサインをしながら高尾はへらっと笑顔を作った。もうすっかりいつもの様子に戻った様子で、鼻歌を歌いながら最後のボールをシュートする。
「よっしゃもういっちょやるかー!」
 今度は少し距離を変えて、センターラインちょうどに陣取る。いくぜ、という合図と同時に受け取ったボールを、緑間はためらいなくゴールに向かって放った。
 ――出してくるパスはこんなに真っ直ぐなくせに、バカめ。
 高尾の様子が時折おかしくなるということに、緑間が気づいたのは割合最近のことだ。初めのうち緑間には思い当たる節がひとつもなく、どうして時折高尾が不安げな表情になるのかちっともわからなかった。
 けれど、意識して様子を見ていれば理由もわかってくる。
高尾は、緑間が改まって声を掛けるのを嫌がっているのだ。普通に話しかけるぶんには何も問題ないのだけれど、「話がある」だとか「ちょっといいか」と場を改めるフレーズを口にしたとき、高尾は一瞬身構える。それが初めに定めた決め事に所以すると気づいた時、緑間はあまりのばかばかしさに思わず長いため息をついてしまったほどだ。
「……高尾、」
「ん? なんかいまの変だったか?」
「いや、なんでもないのだよ。あとは普通のパスを寄越してくれ」
「はいよー!」
 緑間はゴールリングを見据える目を細めた。
 なんでもないふりをし続ける高尾に言ってやりたいことは腐るほどある。オレのことをそんな薄情な人間だと思っているのか、好きだといったくせに信用はしないのか。いっそ問いただしてしまえば簡単に片付くのかもしれない。
 とはいえ緑間には、自分の言葉が思っている通りに伝わらないことが多い、という自覚もある。昔から過剰につんけんした物言いになってしまうのはどうしても直せない緑間の癖で、けれど帝光時代のチームメイトは言葉の裏を理解してくれる面々だったし、高尾だってツンデレと言ってあしらってくれている。でも、だからこそ、そこに胡座をかいて責める口調になってしまうであろうことが厭なのだ。
「真ちゃんナイッシュ!」
「ふん、当然なのだよ」
 緑間は試合中、絶対に決められると自負したシュートしか打たない。失敗したくないからだ。そしてノーマークであればどの距離からでも確実に入れることができる技術を身につけるまで、それこそ何百、何千、とシュートを打ち続けてきた。数えきれないほど失敗をしながら。
 言葉はこのシュートのようにはいかない。絶対に失敗しない、と確信が持てるまで何度も練習を繰り返せるものだったらもうすこし上手くやれるかもしれないのだけれど。
 素直に、失敗せず、ただ好意だけを伝えられたらいいのに。
 手のひらに真っ直ぐ渡されるパスを受け取って、緑間はボールを構えた。視界の端、ふと目に映った高尾があまりにも真剣な顔でこちらを見ているので、視線を正面に戻すのが一瞬遅れる。
「……あ、」
 気もそぞろに指先を離れたボールはわずかに軌道を逸れ、リングの縁にがあん、と鋭い音を立てて跳ね返った。