泣きたいわけじゃなく

「そろそろ寝るか」
「えーまだ早くね? もーちょっといいじゃん」
「寝坊したら困るだろう、ばかめ」
「はいはいっと」
 緑間はてきぱきと布団を敷き始めてしまって、高尾はしょうがねえなあ、とため息をついて後に続いた。部屋の隅に畳んで置かれている布団は、緑間の母親が用意してくれた客用ものである。それを緑間が普段から使っている布団と並べて、今日はお泊りだ。
 ――明日、二人は秀徳高校を卒業する。
 三年間、日数に直せばおよそ千と少し、数にすれば途方もなく長い時間のような気さえするのに、明日が最後だなんてにわかに信じがたい。進路も決まっているし、かったるい卒業式の予行演習さえきちんと出席していたにも関わらず。
だから、一人でいたらなんだか余計なことをたくさん思い返してしまいそうで、高尾は無理をいって緑間の家に泊めてもらう約束を取り付けていたのだった。緑間の母親は料理上手なのにあまり味の感じられない夕食を一緒にとって、風呂を借り、二人で部屋に篭ってからずっと高尾は他愛もないことばかりをしゃべり続けていた。

 思い返してみれば随分とあっという間だったと思う。部長としては十三年連続のウインターカップ出場を守り、そこで成績を残すことができて安心している。高尾たちが散々しごいてきた後輩たちもなかなかの粒ぞろいで、きっと来年以降も不撓不屈の精神を貫いてくれるだろう。秀徳の強さはキセキの世代獲得のお陰だったなんて絶対に言わせません、と頼もしいことを言ってくれた新主将の顔を思い出し、高尾は彼らの未来に期待する。任された時は不安に思うことも多々あったけれど、主将としてやるべきことは全て出来た、と自信を持って宣言できる。
 個人的には――どうだろう。
 倒したいと思っていたはずの緑間と高校で再会し、なんやかんやで相棒になって――まだたった十八年しか生きていない身で言うのはおこがましいかも知れないけれど、三年間、人生を賭けるつもりでバスケットをやってきた。何度も吐いたし、悔しさに歯を食いしばった夜だって数え切れない。けれど、だからこそ得ることが出来る勝利の味はそれはもう甘美なものだった。どれもこれもきっと緑間と出会わなければ味わうことのできないものだったし、バスケットという一つの事柄にこれほど真剣でいられたのもひとえに彼の影響であるところが大きいのだろう。
人事を尽くして天命を待つ、そんな古めかしい言葉を座右の銘とする緑間は、とにかく実直さの塊のような男なのだ。その相棒が不誠実であっていいはずがない。
 そうして三年目のウインターカップ、秀徳の最後の試合をもって、緑間と高尾のバスケットはその幕を下ろした。
 正しくは「勝つためのバスケット」が、である。
「真ちゃんはさ、身体が二つあればよかったのにね」
「何だ? 藪から棒に」
「そしたら、一人はプロになって、一人は医者になれるじゃん」
「たらればの話をしても仕方がないだろう」
「ま、そーだけど。もしもだよ、もしも」
「それに、オレはもう“楽しい”という理由だけでバスケをすると決めたのだよ」
「……うん」
 そんだけ巧いくせに贅沢者め、と軽口の一つでも叩いてやりたかったが、なぜだかきゅうっと喉の奥が狭まって返事をすることしかできない。高尾は敷き布団の上にシーツをかぶせ、端を折り込むのを口実に顔を伏せた。
 二人は職業としてバスケをすることを選ばなかった。緑間なんて高卒では異例ともいえるオファーもいくつかあったのにそのすべてをにべもなく断り、大学ですら一般で受験している。しかもストレートで医学部合格だ。ブレないところはなんとも緑間らしい。
来月になったら、二人は別々の大学へ進学する。
 とはいえ、色々な条件を絞って選んだ大学はやはりそれぞれバスケも強い大学で、おまけに同じ一部リーグ所属である。これからは敵同士として、何度も試合をすることになるだろう。そこに焦燥を覚えるほどの勝利への執着はもうないかもしれない。けれど試合となれば本気でやるつもりだし、元相棒だって容赦はしないつもりだ。なにしろ高尾にとっては、三年越しに叶う真剣勝負なのだ。そこに一抹の寂しさを感じなくはないが、比べ物にならないほどの期待と高揚感は確かにある。なのに、
「お? あれ……?」
 ぱた、と小さな音を立てて、なにかがシーツの上に落ちた。なんだろうと思って手のひらを差し出すと、その上にぽたぽたと落ちる水滴は涙みたいだ。道理で急に視界が悪くなったはずだ、と高尾は他人ごとのように思う。
「高尾?」
 呼ばれて顔を上げると、真っ直ぐ落下していた涙は下瞼のふちを乗り越え頬に伝っていく。緑間はぎょっとしたようだった。そりゃあ、今の今まで普通に会話していた相手が突然泣きだしたら吃驚もするだろう。
「真ちゃん……、」
 ごめんねちょっとセンチメンタルな気分みたい、と笑いたいのにうまくいかない。目と鼻の奥がじんと熱く痺れていて、喉がうまく開いてくれなかった。だらしなく濡れた目を拭おうとした手は緑間に掴まれ、代わりに頬にティッシュが押し当てられる。
「こすると目が腫れるのだよ」
「……っは、はは、なにそれ」
「式が始まる前から泣き腫らしていたら格好がつかないだろう、ばかめ」
「真ちゃんなんて、ちょっと前まではすげー……泣き虫だったくせに、えらそう」
「うるさい。出すものはさっさと出してしまえ」
「あーい……」
 目の下に当てられたティッシュが流れる涙を次々吸って、だんだん湿り気を帯びていくのがわかる。というかティッシュぐらい自分で押さえられるから離してほしい。無様なところは散々晒してきた気がするけれど、正面から泣き顔を見られるのはさすがに気恥ずかしい。高尾はそれでも止まらない涙をまばたきで押し出しながら、そっと視線を逸らす。
 ――自分らの卒業の時はオレが面倒見てやる、って言ったのになあ。
 思い出すのは二年ほど前、まだ二人が高一だった時のことだ。
 あの年もいいチームだった。いろいろなことがあった一年間だった。ウインターカップが終わり一段落して先輩たちがいざ引退の挨拶をするとき、周りがびっくりするほど泣いたのは他でもない緑間だったのだ。入部した頃は自分が点を取れば勝てるのだから、と不遜な態度を隠しもしなかった緑間のプレイはその頃にはすっかり変改していて、きっと思うところはたくさんあったのだろう。チームとか、そういうものに。
 先輩が引退して淋しいのは初めてだ、泣き止む方法がわからない、とぐずぐず涙をこぼす緑間に、「擦るとブサイクになるぞ」ともらい泣きしながら目元にタオルを押し当ててやっていたのは宮地さんだった。
ちょうど、いまみたいに。
 それで、来年からはオレが慰めてやっから、と高尾も半分泣きながら言ったのだ。結局そうはできなかったのだけれど。
 二年の時は一緒にわんわん泣いた。三年の最後の試合が終わった後は涙も出なかった。ああやっと終わった、楽しかった、やりきった、三年間終わっちまったなあ、と思っただけで。なのにいまさらこんなに泣けるのはなんでだろう。
「……っ、真ちゃん面倒かけてごめんな」
「今更なのだよ」
「ホント、っかしーな……別に悲しくなんてないんだけど、さ」
 鼻水まで出てきてしまって、受け取ったティッシュで鼻をかむ。無言でゴミ箱を差し出されて、涙で濡れたティッシュごと丸めて放り込んだ。
 悲しくなんてない、本当に心からそう思うのだ。バスケをしていた三年間、最後の一秒まで、後悔することはひとつだってない。緑間風に言えば最後まで「人事を尽くして」きたと思う。
そしてなんの悔いを残すことなく過ごすことができたのは、きっととてもとても幸せなことだ。無様な負け試合を思って一人練習していた中学時代とはまったく反対の、清々しい気持ちでいられるのだから。
「お前は本当にバカなのだよ」
「……何がだよ」
「主将まで務めておいてちっとも解っていない。視野は広いくせに、自分のこととなるとからきしだな」
 緑間はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、ティッシュの箱で高尾の頭を小突いた。もう一度ぐずぐずする鼻をかんで、黙ったまま話の続きを促す。
「明日、式が終わったらバスケ部で集まることになっているだろう」
「……? うん」
 高尾は首を傾げた。確かに卒業式が終わったら、バスケ部は体育館に集合しようという話にはなっている。
式の片付けをバスケ部総出で手伝う分、終わったら少し使わせて貰えないだろうかと後輩たちが交渉してくれたらしく、そうなれば自然と全員集まることになるだろう。謝恩会は夕方からなので、緑間の言うとおり最後にミニゲームでもして解散するつもりだ。
「どうせ三年と一、ニ年でゲームをするだろうから、言うなら明日だと思っていたのだが……あまりにもお前がアホだから教えてやるのだよ」
「アホっておまえなあ……」
 ほんの数分にも満たない間にバカもアホもコンプリートしてしまった。ひょっとしたらこれまでの最短記録かもしれない。けれど反論して話題を逸らすのはやぶさかではない。
 緑間はメガネの位置を直しながら、たった一言、
「愛しているからだろう」
 と言った。
「うわ……っ」
 何を、なんて言わなくてもわかる。高尾は手のひらで口を押さえ、大声で叫びたくなるのをなんとか押さえた。新しい涙がじわりと眼球を覆ったけれど今度は溢れるほどではなく、高尾はただただやり場のない気持ちがすとん、と収まるべきところに収まったのだと理解した。そうだ、泣きたいわけじゃなくただそう言いたかっただけなのだ、と。
「やばい、どうしよう、真ちゃんってやっぱスゲーよ……」
「……ふん」
「ほんとだ、……愛してるよオレも」
 愛してるなんてこっ恥ずかしい台詞を、ジョークではなく本気で口にしたのは初めてだ。けれどこれ以上しっくり来る言葉はない、というほど馴染んでいる。ただひたすらにボールを追い続けていた三年間だった。いつだって必死過ぎて気づいていなかったけれど、秀徳のバスケが大好きだったのだ。
 秀徳に入ってよかった、いや、秀徳でなければだめだった。
 高尾は目元をそっと拭ったティッシュをゴミ箱に投げ入れ、きれいにテーピングが施された緑間の左手へ手を伸ばす。
「真ちゃん左手かして」
「ん?」
「三年間ありがとな。オレとバスケしてくれてさ」
 恭しく唇を落とす。振り払われはしなかったが、緑間は眉根を寄せてむっと唇を引き結んだ。不機嫌になったときによくする表情で、こんな時なのに笑ってしまいそうになる。
「人の台詞を横取りするな」
「っうわ、ちょ、真ちゃん……っ」
 がっしり顔を掴まれて、思わず目を瞑った高尾のまぶたに緑間の唇が触れる。右目と左目両方に一度ずつ、熱を持ったそこにやわらかく。あとから照れくさくでもなったのか、「しょっぱいのだよ」と不満気な感想を漏らした緑間とひとしきり笑いあって、それから二人して少しだけ泣いた。
「明日も後輩連中こてんぱんにしてやろーな」
 中途半端だった布団を今度こそきちんと敷き終え、並んで寝転びながら高尾は言った。作ってもらった氷嚢をまぶたの上に乗せている状態では格好がつかないけれど、当然なのだよ、とそれでも当たり前に返ってくるのがいとおしい。卒業前夜だった。