檸檬

 妙に頭だけが冴えてしまって、上手く眠りにつけない。
 部屋を暗くしてベッドにもぐりこみ目を瞑って、何も考えないように努力はしているのだ。けれど余計なことを考えないようにしようとするほど、ろくでもないことばかりが脳裏をよぎってやまないのはなんでだろう。男のくせにセンチメンタルなんて情けない。
 新月なのか曇り空なのか、月明かりひとつない部屋はまぶたを開いてもほとんど真っ暗だった。外は静かで、時折道路を通り抜けていく車のエンジン音だけが聞こえてくる。雨は降っていないらしい。
 どうにか気を紛らわせようとしたけれど、普段好んで聞いている音楽も深夜に聞くには耳障りなだけだった。こういうときはそれこそ静かなクラシックのほうが心地よく聞けるのかもしれない、と思いついて、クラシックといえば真ちゃんだ、と思った。
「……うわ、」
 枕元に置いた携帯を開くと、ディスプレイのライトが目を刺すようにまぶしい。画面を傾けて直接光を見ないようにしながら、電話帳から選択し慣れた名前を選び出す。ま行は右に五つ、そこから下に十一番目だ。
 通話ボタンを押す直前、画面の隅に表示されている時刻は一応確認しておいた。きっと真ちゃんもギリギリ起きているか、寝ようと布団に入ったところだろうか。もし既に眠っていたらおそらく携帯はマナーモードになっているし、そうそう簡単なことで彼は目を覚まさないだろうから。
 コール音を六回まで数え、諦めようとした瞬間だった。聞き慣れた真ちゃんの『なんだ、』と不機嫌そうな声が、呼び出しの機械音に取って代わる。
「真ちゃんもしもし、オレだけど」
『そんなことは解っている。なんだ?』
「一応礼儀っつーか、もしもしぐらい言ってもいいだろ〜?」
 まあ確かに、お互い電話帳に登録されている番号なのだから、誰からかかってきたかは一目瞭然だろう。でも逆に言えば、俺からだとわかっていて無視しなかったということだ。当たり前のことだがそんなことがじんわりと嬉しくて、ああなんだ人恋しかったのかと思い至る。
『で? どうかしたのか』
「ううん、なんか真ちゃんの声が聞きたくなって。てゆーか眠れなくて。何してた?」
『時計を見ろバカめ、俺ももう寝るところなのだよ』
「じゃあギリギリセーフってとこだな」
『常識的にはアウトなのだよ。こんな時間に用もないのに電話だなんて』
「へへ、」
『笑うな』
 受話器越しに聞こえる真ちゃんの声は、生身のそれよりノイズが入って少しがさついている。機械を通しているのだから当然だ。でも真っ暗な部屋で目を瞑って聞いているとすぐとなりにいるような気もしてくるので、人の耳というのは現金だと思う。
「真ちゃん、何か話して」
『は? ……明日の朝練はいつも通りの時間なのだよ、寝坊するなよ』
「うん」
『…………』
「…………」
 真ちゃんの声ならなんでもいいんだ、眠れないんだよ。そう強請る声がやたら甘えたものになってしまって恥ずかしかったが、果たして受話器越しに自分の声はどう聞こえているのだろうか。できればいつも通りだと助かるのだけれど。
 そもそも普段から、話題を提供するのは俺の役目だった。俺がなにか適当なことを言ったり真ちゃんをおちょくったりして、真ちゃんはそれに突っ込んだり怒ったりする。だから急になんでもいいからしゃべれ、なんて言われても困るに違いない。現に受話器の向こうはさっきから沈黙が続いていて、そろそろ切られるかな、と俺は思った。
『……なんでもいいんだな?』
「え、あ、うん」
『……得体の知れない不吉な塊が、私の心を始終おさえつけていた、』
「……梶井ちゃんだ」
『文豪をちゃん付けで呼ぶなバカめ』
 俺は真ちゃんと違って小説の類はあまり読まないけれど、さすがに現代文の教科書に載っている話ぐらいはきちんと覚えているのだ。ひょっとして真ちゃんは勉強しているところだったのだろうか。だったら邪魔して悪かったな、と思いつつ、続きを読み上げ始めた声に瞼を伏せる。授業中も常々思っていることだけれど、緑間のこういう声は低くて落ち着いていて穏やかで、とても心地が良いのだ。
『――いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。』
 それでも真ちゃんの声だけは、絶対に好きだと思うよ。きっと。


 *


「……高尾?」
 二ページと半分ほど読み進めたところで、受話器越しに伝わってくる高尾の気配が寝息に変わっていることに気付いた。眠れないと言ったくせに案外あっさりと寝付いたものだ。逆にこっちは眠たかったのに、頭を余計に使ってしまって目が冴えてしまったじゃないか。言っても仕方のない恨み言は渋々飲み込んで、おやすみ、と告げ通話を切った。途端に部屋が静まり返る。
 檸檬を置かずに済んでよかった。