ホワイトデー

 階段を早足で駆け下りると、ポケットに入ったラッキーアイテムががらんと小さく篭った音を立てた。
 片手に下げている紙袋にはクッキーの包みがあと一つ残っている。清掃の時間が終われば放課後で、そうしたらすぐに部活の支度をしなくてはならない。だからそれまでに緑間はこの最後の一つを渡し終えなくてはならないのだ。
「あれ、緑間くん」
「あっ」
 2年生の教室がある階にたどり着くと、ちょうど角を曲がってきたのはまさに今探していた先輩だった。一つ学年は上で、緑間は同じ図書委員で知り合った女の先輩だ。図書委員の仕事は貸出手続きや本棚の整理を回り持ちで行うものだったが、各学年およそ10クラスずつあるので月に1度回ってくるかないか程度の、至極簡単な活動である。緑間は部活があるので、それも出来るだけ昼休みにしてもらえるよう調整している。けれど放課後を外したいと思うのは緑間だけではなく、全て希望通り、というわけにはいかなかった。緑間が我儘を許されているのはあくまでもバスケ部内でのことなのだ。といっても妥協できないほどのことは、基本的にバスケ以外にはないのだが。
 そういうわけで、たった1日とはいえ大会前に部活を休むわけにはいかずに困っていたところ、代わろうか、と声を掛けてくれたのが彼女だった。
 曰く帰宅部で、放課後は予備校に通っている以外の用事がないらしい。
 見ず知らずの上級生に甘えるのはおこがましいとは思ったが、背に腹は代えられない。そんないきさつで緑間は彼女と知り合いになったのだった。といっても、たまにある委員会の時や廊下ですれ違った時に挨拶する程度で、だからわざわざバレンタインにチョコレートをくれたときは少し驚いた。
「あの、……いや、」
「どうかした?」
「いえ、それ持ちます」
 早いところお返しを渡してしまおうと思っていたが、両手にゴミ袋を下げているのが目に入った。さすがにゴミ袋を持った相手に食べ物を差し出すのはよろしくないだろう。
 ゴミの収集場は校舎裏にある、石造りの一見倉庫のようになっている場所だ。そう遠くないので部活にも間に合うだろう、と緑間は思い、屈んで彼女の手から荷物を取り上げた。中身が詰まっているのか、思いの外重たい。
「それで、これお返しです。先日はありがとうございました」
「ああ、そんなの気にしなくて良かったのに」
 代わりに紙袋ごとお返しを渡し、そのまま廊下を並んで歩いた。ラケットを持ったテニス部員たちとすれ違う。どこかから既に準備を始めたらしい吹奏楽部の、クラリネットのピッチを合わせる音が聞こえてきた。体育館ではそろそろ早く着いた高尾や他の1年たちが準備を始めている頃だろうか。
「クッキーだ。ありがとうね」
「別にたいしたものでは」
「ううん、まあ、とりあえず友達には昇格したってことでしょう?」
「友達?」
「緑間くんはやっぱ知らないか。ま、そんな細かいこと気にしてる子いないと思うけど」
 諸説あるけどお返しには意味があってね、と指を折りながら解説され、緑間は寝耳に水といわんばかりに目を瞬かせた。とはいえ買い物にいったデパートではホワイトデー用として他にもいろいろな種類のお菓子が並んでいるのを見ているので、さほど気にするようなことでないのは確かだろう。高尾は果たして知っていたのだろうか。多分知っているのだろうな、と緑間は確信めく。
 彼女とはゴミ捨て場で別れた。部活頑張ってね、と言われ頷き返すと、緑間は体育館へ向かった。


「よっ真ちゃん。お疲れさん」
 部室に入ると、既にTシャツに着替え終えた高尾はバッシュのひもを結んでいるところだった。緑間も自分のロッカーに荷物を入れ、早いところ着替えを済ませてしまわなければならない。一番怖い先輩をはじめとする三年生たちが引退したからといって、モップがけや諸々の準備は変わらず1年生の仕事であるし、手を抜くわけにはいかないのだ。
「高尾、口を開けろ」
「え? なんで?」
「いいから」
「……? あー、」
 テーピングを外した指で舐めていた飴をつまむと高尾の口に放り込んだ。まだほとんど形を残していたぶんなんだか口さみしくなって、ポケットに入っていたドロップ缶からもう一粒、今度はオレンジ色をしたそれを口に入れる。
「えっ、真ちゃん、」
「ハッカは辛いから苦手だ」
 びっくりしたように見開かれた目元をじんわり赤らめ、高尾は「うふふふ」と気色の悪い笑い方をした。ドロップ缶のハッカはどちらかと言えば甘い。
「アップまでに食べ終えるのだよ」
「えー、ずっと舐めてたいな」
 ぐずぐずと相好を崩している高尾を尻目に緑間は制服を脱ぎ、奥歯でガリ、と飴玉に歯を立てた。砕けてしまわないぐらいの加減をして、甘く。