#1

「うん?」
 いつもより長めの残業を終え帰宅した高尾は、ポストに入っていた白い封筒に首を傾げた。
 宛名は高尾和成、自分である。
 裏面には差出人の名前がなかった。他に変わったところといえば、この手紙はどうやら日付指定を使って出されているらしい。指定配達日、と書かれたシールが貼り付けてある。
 パソコンや携帯のメールで大抵の用事は済んでしまうご時世なので、届く手紙といえば何らかのダイレクトメールや請求書、同窓生や知り合いからのめでたい知らせ、そういったしきたりを重んじる友人からの時候のはがきぐらいのものだ。それでもエントランスを通るたび、ポストのチェックをするのは習慣である。
 ともかく、きちんと封筒に包まれた手紙、というのをもらうのはとても久しぶりのことだった。さて、差出人は誰だろう。


 エレベーターで5階まで上り、廊下を進んで一番端。そこが高尾の今住んでいる部屋だ。
 JRと地下鉄どちらも使うことができるので便利だし、その駅からも徒歩10分ほど。近くに小学校があるので運動会シーズンになるとすこしうるさく感じることもあるが、日当たりも悪くなく、日頃の買い物も近くで済ませることができる。そんなわけで、2LDKのこのマンションを高尾はなかなか気に入っている。同居人はいましばらく不在にしているところなので、早く帰ってきてくれさえしたら何も文句はない。
「ただいまー」
 誰もいないけれど癖で声に出し、靴を適当に脱ぎ捨てる。背広は皺になったら困るので一応ハンガーにかけ、他は着の身着のまま、高尾は自室の机にしまってあるペーパーナイフを手にとった。普段は適当に手で端を千切ってしまうのだけれど。
 ペーパーナイフ、なんて小洒落たものが自分に似つかわしくないという自覚はある。
 けれどこれは高尾にとって大切な贈り物なので、こうして何か大切そうな手紙が届いたときは、きちんとそれを使って開封することにしているのだ。
 これを貰ったとき高尾はまだ学生で、黒の詰襟の制服を着ていた。その制服も毎日背負っていたオレンジと黒のエナメルバッグも、使いふるしたバスケットシューズやボールも、当然ながら既に捨ててしまっている。今でも昔の仲間たちとバスケに興じることはあるのでバッシュやボールは一応持っているが、それらは何度も買い直されたものだ。
 だから、当時の持ち物で今でも手元に置いてあるのは、ごくわずかだ。
 

 *


 高校2年の、17歳の高尾の誕生日は日曜日だった。
 ウインターカップ予選の最終日、順位決定戦の当日だったのでよく覚えている。高校時代、一番打ち込んだバスケのことは片時だって忘れたことがない。その年は桐皇がインターハイを制し、ウインターカップ行きの切符を一足はやく二年連続で手に入れていた。通常枠の都代表2校は前年と変わらず秀徳と誠凛になった。
 それまでと打って変わって覇気を取り戻した青峰と、それまで以上に念のこもったプレーを見せるようになった紫原に氷室がいる陽泉の勢いを、他のどの学校も抑えることができなかった。ウインターカップ本戦は陽泉が優勝した。またしても王座を逃した秀徳はますます闘志を持って練習に励むこととなり、結果的には3年の冬、最後の最後にやっと、悲願を果たしたのだった。
 そんな、今思えばこっ恥ずかしいほど青春真っ盛りだった、高校生の頃。
 誕生日から一週間ほどが過ぎたある日、練習後の部室で高尾は薄ピンク色の封筒の端を破っていた。平たくいえばラブレターというやつだ。全国区のバスケ部でレギュラーともなれば、知っている人は知っているというものだ。人当たりのいい性格も相まってか、多くはないが好意を寄せられることは時々あった。
 ――こないだの試合観て惚れ込んじゃったんだって、バスケが大好きな子でね、でもだから返事は要らないので渡すだけ渡してくれって言われちゃって。
 そんなことを言いながら封筒を差し出してきたのは、クラスメイトの女子だった。なんでも秀徳対誠凛の試合を見に来てくれていたらしい。秀徳の試合をみて緑間じゃなく自分がお眼鏡にかなうなんて不思議な話だ、普通にそこは緑間にいけよ、と思いつつもやはりうれしいものだ。
「高尾、それは」
「うん? ラブレター……っていうかファンレター的な?」
 現に手紙の中身はほとんど試合に関することだった。ラブレターには違いないのかもしれないけれど、これからも頑張ってください、で締められた文面は恋愛関係を望むものではなかったのだ。それに少しだけほっとしつつ、けれど本気でバスケをやっているのを解ってくれたのだと思うとやっぱり嬉しく、見ず知らずのお嬢さん有難う頑張るよ、と高尾は胸の内で返事をしたためる。
「第3クォーターでさ、真ちゃん囮にしてバックパスしたじゃん。あれ褒められちゃった」
「なるほど、あれは良かったのだよ」
「うへへ、真ちゃんにまで褒められちった」
「気持ちの悪い声を出すな」
 眉根を寄せながら制服のカッターシャツに袖を通し、緑間はてきぱきと着替えを済ませていく。高尾は手紙の最後までひと通り目を通して、それからざっともう一度読み、はあ、と大きく息を吐いた。
 高尾と緑間はまだ2年生で、代替わりした直後は一つ上の先輩たちとなかなか上手くやれず苦労もたくさんした。年功序列なんて生ぬるい言葉が通用しないのは誰もが解っていることだが、それでもやはり先輩たちなりに思うところはあったのだろう。それをなんとかすり合わせて練習を重ね、新しいチームを作り上げてきたのだ。
 今年だって。
 先輩はこの冬が最後の大会だ。自分には来年がある、なんて甘いことはこれっぽっちも思っていない。ウインターカップ本戦まであとおよそ一ヶ月、今まで以上に努力しなくては、と高尾は決意を噛み締めた。
「……おい、早く着替えろ」
 そんな感傷じみたものに浸っていた高尾を現実に引き戻したのは緑間だ。いつの間にかすっかり帰り支度を整えてしまったらしく、きっちり学生服を着込みマフラーを首に巻いている。対して高尾はまだバッシュすら脱いでいないありさまだった。
「おわっ、真ちゃんはええよ! ちょっと待って急ぐから」
「いや、今日は用事があるからオレは先に帰るのだよ。リアカーは学校に置いていけばいい」
「え? 用事あんならそこまで送ってったげるけど?」
「大丈夫だ」
 バッグを背負い、緑間は部室を出ていこうとしていた。無理に引き止めても仕方ないし、それより早く着替えて帰らなければ最終下校時刻を余裕で過ぎてしまうので、とにかく着替えて帰るのが先決だと高尾も判断する。
「そんじゃ明日の朝はリアカーなしな。お疲れさん」
「ああ」


 その翌日のことだった。
 綺麗な箱に収まったペーパーナイフを、緑間が高尾にくれたのは。
 いわく、大切な手紙であればあるほど丁寧に扱って然るべきだ。おまえは気が利くかと思えばがさつなところもあるのだよ、という細々とした指摘をくどくどとされ、それでも最後には「先日誕生日だったろう」と付け加えた緑間の、本当に言いたいところはおそらくそれだった。まったく面倒臭いエース様だ、と苦笑しながらも、高尾はそれをありがたく受け取ったのだった。
 食べ物や消耗品でないものを緑間に貰ったのは、それが初めてだ。
 刃の部分はなだらかなくびれがあり、見た目にも美しい。持ち手の部分は深いオレンジ色をしていて、高尾はすぐにそれを気に入った。本当なら肌身離さず持っていたいほどだったが、それを察したのか、不用意に持ち歩くのは銃刀法違反になるから家に置いておくように、と緑間は眼鏡のブリッジを押し上げながらぶっきらぼうに忠告してくれたのだった。