ここだけの話、

 真ちゃんの座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」。
 高校を卒業したってそれは変わらず、大学でも成績はかなり優秀であるらしい。きっと成績表は優ばっかりなんだろうな。見せて、なんて言ったらお前のも見せろと言われそうな予感がひしひしとするので、俺は真ちゃんの人事を尽くした学業の結果を知らない。つい先月送られてきた俺の成績表は、まあ落とした単位こそなかったものの、優が1割、良が4割、残りは可ってところだ。中には必修でも半分ぐらい落とされるっていう鬼のような科目もあったので俺としては上々な結果だと思うんだけど、妥協するな、って怒られそうなのでそこは不干渉ということにした。
 なにもかも、バスケみたいにぱっと目でみてわかるものだったら簡単でいいんだけどな。

 そんな真ちゃんは、いま台所に立っている。
 料理はいつまで経ってもうまくならない真ちゃんだけど、コーヒーを淹れるのはとても上手だからだ。逆に言えば、それ以外で真ちゃんが台所に寄り付くことはほぼないといっていい。俺が水を取ってきて、と夜に頼んだときぐらいだろうか。
 料理は俺が出来るんだからそれでいい、だそうだ。
 もちろん思いつくことや日常生活のすべてに人事を尽くしだしたらいくら真ちゃんでもパンクしてしまうだろうし、それで構わないと思う。俺は料理が嫌いではないし。外ではいつもしゃきっとしてる真ちゃんなので、家の中でぐらい存分にのんびりすればいいのだ。そして実際、家の中での真ちゃんは人並みにぐうたらして過ごしている。休みの日はおは朝を見終わったら二度寝するし、靴下はたまに片方なくしてベッドの下から出てきたりするし、干した布団を取り込むのを忘れたりするし、まあそんな感じで。

 そんな真ちゃんが、家の中で人事を尽くしているたぶん唯一の瞬間が、コーヒーを淹れるという一連の作業をしている時だ。

 以前、必修科目が多く試験前に10本近くレポートを抱えるはめになり、俺が夜な夜な必死にパソコン画面と向き合うことになっていた時のことだ。資料とにらめっこしているうちに冷めてしまったコーヒーを流しに捨ようとしたところ、たまたま同じタイミングで部屋を出てきた真ちゃんは「どうして捨ててしまうのだ」と首を傾げた。俺は冷めたコーヒーはまずいから、と答えた。すると真ちゃんは自分の試験が終わるとすぐドリップする器具をあれこれ買い込んできて、インスタントじゃないコーヒーを淹れてくれるようになったのだ。といっても最初のうちは俺は飲ませてもらえなくて、たぶん2週間ぐらいはおあずけを食らったけど。部屋にはいつもコーヒー豆の香ばしい匂いが漂っているのに、真ちゃんは一向にそれを俺に出してくれなかった。あの時は新手の嫌がらせか何かなのか疑いそうになった。
 そうしている間にも真ちゃんは真ちゃんで人事を尽くしていたらしく、ついに出してもらえたコーヒーは詳しく知らない俺でも素直に「おいしい」と思えるものだった。最後の一口までちゃんとおいしかった。真ちゃんが淹れてくれたっていう補正もちょっと、いやかなりあったかもしれないけど、それを差し引いてもきっとものすごくおいしいと思う。他のやつに飲ませてやるのはなんだか癪なので、誰かに感想を求めようとはこれっぽっちも思わないけど。
 俺たちの借りているマンションの近くには昔からあるらしい喫茶店があって、なんでも真ちゃんはわざわざそこのマスターにこのやり方を聞いたらしいのだ。コーヒーは冷めると酸化してまずくなるから深煎りの豆を使うといいとか、おいしく淹れるやり方にもナントカ式って名前があるらしいとか、あれこれあるみたいだけど一回聞いただけなので俺はすぐに忘れてしまった。お湯を注ぐ量ややり方も細かく決められているらしく、真ちゃんはいつも真剣な顔で台所に立つ。料理はからきしなくせに。

「飲め」
「ん、ありがとー」

 どうやら今日もつつがなくコーヒーが完成したらしいので、俺は真ちゃんを見つめながら回想するのをやめカップに集中することにした。
 真ちゃんの「人事」がここに凝縮されて、俺がそれを飲む。
 バスケみたいにぱっと目でみてわかるものじゃないし、他のだーれも知らないことだけど、俺だけが独占できることなのだと思うとすこぶる気分がいい。
 真ちゃんの座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」。
 俺のために人事を尽くす真ちゃんは、一体どんな天命を待っているんだろう。なにか見返りを求めてやっていることじゃないって解ってるけど、こんなに頑張ってくれたらご褒美をあげたくなるのは当たり前だろう。「飲み終わったら真ちゃんにしてあげることリスト」を頭の中で書き出しながら、俺は熱くて香ばしいコーヒーをゆっくり啜った。
 だってそれは、俺にしかあげられない天命だしね。