エコロジカルに生きたい緑間君

 人間はもっとロジカルに生きるべきではないかと思うのだよ。
 そもそも人の身体というのは全てが定められた化学反応で説明がつくものだ。細胞一つの動きまでな。だから人間という生き物が生きるのに必要な最低限のルールに則って行動するようになれば、それはそれでつつがなく平和な世界を築くことができるのではないかと思ったのだ。生まれ、成長し、繁殖し、死ぬ。一連の流れを正しくこなすことができれば生き物本来の目的である遺伝子の保持と繁栄は確実になされるではないか。そこで不必要になるのは感情だ。
 ロジカルに生きる、という目的に於いて感情は必要ではないはずだ。なぜなら人は何も考えずとも伴侶を選びとることができるのだから。人というのは自らの持つ遺伝子と離れている相手を、……遺伝子の構造が離れていれば離れているほど、組み合わせ子を成したときより免疫に優れた個体が生まれやすくなるのだよ――そして一説によれば女性の方が優位にあるらしいのだが、人はそれぞれが持つ体臭で遺伝子を嗅ぎ分けることができるのだそうだ。そう考えると化粧や香水や制汗剤なんてものはまったくもってナンセンスというわけだ。人間はロジカルに生きる方法を自ら封殺しているということになる。お前に対してだってそうだ。俺は別にお前の匂いを嗅いでうっとりもしないし、普通に男臭いと思うことの方が多いのだ――はっ、お前はいい匂いだとでも言われたいのか? 俺に? そうだろう。だからつまり、俺とお前との関係はまったくもってロジカルではないということだ。簡単に言えば面倒臭い。できればこのあたりですっぱり別れて、もっと合理的な生き方に身を委ねるというのも悪くないのではないかと思うのだよ。


 真ちゃんどったの、なんかお疲れじゃん。
 俺は遺伝子がどうとかそういうのはよくわかんねーけど、まあなんつーか、人間っつーのは真ちゃんが思うほど難しいもんじゃないと思うんだよね。確かに感情がなければグズグズ悩んだり考え込んだりしなくて済むかもしれないけど、それじゃあそのへんの犬猫と一緒じゃん? いや、犬や猫だって顔の好みぐらいあんのか? まあそれもよく知らねーけどさ。もっと言えば植物とか? それはそれで楽かもしれないけど、まあ楽しくはねえよな。
 そういえば真ちゃん、フランケンシュタインの原作って読んだことあっかな。映画じゃない方ね。おお、さっすが真ちゃん! バリバリ理系だけど真ちゃんって小説も結構読むもんなあ。そうそう、あれに出てくる怪物さ。最初はまっさらでからっぽの怪物があれこれ覚えて感情を持つようになっていく話、俺結構好きなんだよね。フランケンシュタイン・コンプレックスとかそーいうのは置いといて、「人間」が成長していく話としてさ。つまるところ、生まれてからこれまでの経験によって人はどうにでもなるし、一度経験してしまったことは記憶喪失にでもならない限り捨てられないんだよ。しょうがないことだけどその積み重ねでできてるわけ。あ? 俺これでも結構ロマンチストだからさ。
 つーわけで、真ちゃん的に言ってみると感情だって「化学反応」の結果なわけだ。俺が今真ちゃんが好きで好きでしゃーないのも、ぜーんぶね。真ちゃんを初めて見た時、なんだコイツふざけんなって思った。そんでその半年後に高校で再会して、あーあ、って思った。でも真ちゃんが練習むちゃくちゃ頑張ってるのを見たら、だんだん好きになってったんだよ。ぶふっ、ちょっ、今更こんなことで照れないでよ真ちゃん! ……ま、そういう気持ちの変化だって、ぜーんぶ化学反応だってことだよ。色んな原子に熱を加えたり時間を置いたりすると別のモンになるのと一緒。化学めっちゃ苦手だったけどさ。元素記号とか水素ヘリウム……リチウム……ベなんちゃら……しか覚えてねーけどさ。だからまあ、俺と別れたいんだったら生まれ変わってやり直してね。植物かなんかになってさ。


 話は終わり、と言わんばかりに勢いを付けてソファから立ち上がった高尾は、キッチンに立つとミルクパンをガスコンロの上に置いた。冷蔵庫から出してきた牛乳を適当に鍋に入れて火にかける。
「真ちゃん、ちょっと甘いのと結構甘いのとすーっごい甘いのどれがいい?」
「……すーっごい甘いやつがいいのだよ」
「ふは、すーっごいね、了解」
 正直なところ、高尾の話はいつも屁理屈のように感じる部分がある。そんなことを言えば自分のそれだって同様なのだけれど、不毛な会話であることは元より解っているのでそれは問題ではない。
 大人になる、というのはひどく面倒臭い。
 体重にまかせてソファから腰をずりおろし、後頭部を背もたれに預ける。蛍光灯の光が目にまぶしい。この光がまぶしいと知覚するまでにどんな反応が身体の中で起こっているのか、緑間には説明することができる。蛍光灯が明るく光る原理だとか、テレビが付く仕組みだとかも。一つだけ説明できないのは、今こうして高尾と一緒にいる、ということだった。
「真ちゃんすぐ出来るから寝ないでよ〜」
「寝てない。目を瞑っているだけだ」
「そんなこと言って、いつもおやすみ3秒なくせに」
 昨日だって俺が風呂からあがったら真ちゃん一人で寝ちゃってるしさあ、とまったくなじる様子のない恨み事を聞き流しながら、適当に相槌をうつ。変なタイミングで「うん」ばかり返していたら、高尾は仕方ねえなあ、と言って笑う音が聞こえた。その声が好きだと思う。なるほどこれが化学反応か。
 あまりにも不毛でどうでもいい話をしたあと、高尾はいつも緑間と同じものを飲む。さほど甘党ではないくせに、緑間に合わせたものを飲む。
 ミルクが温まってきたのか、ふんわりした香りが鼻孔をくすぐる。目を開けてお揃いのマグカップを見たらきっとまた、さっきのきもちに別の原子がくっついて、好きだなどと思ってしまうんだろう。まったく面倒くさい。面倒くさいのでギリギリまで粘ってやるつもりで、目を瞑ったまま高尾がキッチンで動いている気配を感じていた。両手がカップで塞がっている高尾が、緑間を起こそうと鼻先にキスするまで。