ここにいるよ

 どすん、と重たいものが落ちるような音と衝撃で高尾は目を覚ました。起き抜けの頭ではそれが夢の中の出来事か現実のことか判断がつかない。が、隣の部屋には背の高い本棚があり、その中身も詰まっていることを思い出すとあわててベッドから起き上がった。
 物音の原因は上の階の住人かもしれないが、あまり家に帰って来ないタイプの人なのか、ここに住み始めてから生活音に悩まされたことはあまりなかった。数ヶ月に一度ぐらい、夜中に掃除機を掛ける音が聞こえてくるのを「ああちゃんと生きてるんだな」と思ってしまうほど静かなのだ。もちろんうるさいよりずっといいのだけれど。
「真ちゃん!?」
 自分の部屋を出て、隣にある緑間の部屋をそっと覗いた高尾は素っ頓狂な声を上げた。床に緑間が蹲っていたからだ。
「えっ、今の物音真ちゃんだった!? ていうかどーしたの、なんかあった?」
 つい今しがたまで寝ぼけていたのに、一気に目が覚めてしまった。本棚の下敷きになったわけでもラッキーアイテムになりそうなものが壊れた音でもなかったが、緑間本人に何かあったなら一大事だ。あわあわしながらしゃがみ込んだ高尾を床に転がったまま見上げた緑間は、メガネをかけていない目を細めて睨みつけるような眼光を寄越す。視力がすこぶる悪いので、裸眼でものを見ようとするとそうなってしまうのだ。高尾は子供の頃からずっと視力がいいのでわからないが、近視の人間は目を細めると少しは視界がはっきりするらしい。そっちの方が余計に見難そうなのだが。
「高尾か……?」
「そーだよオレだよ! つか一緒に住んでる奴以外だったらコエーだろ!」
「いや、……ああ、ベッドから落ちたようだ」
 緑間の口調はいつもより幾分ゆったりしている。まだ夢うつつの中にいたのだろう。それにしても寝相だけは信じられないほどいいはずの緑間が、まさか寝ぼけてベッドから落ちるなんてことがあるのだろうか。合宿で初めて見た時は衝撃的だったが、緑間は一度眠ったらほとんど姿勢を変えないまま朝まで眠るのだ。仰向けになって、寝ているときまでぴんと身体を伸ばして。今でもそれは変わっていない。高尾が同じ布団に入っている時は例外として。
 身体を起こそうとした緑間が思い切り眉根を寄せたので、高尾は慌てて手を差し出した。
「真ちゃん大丈夫かよ、どっか打った? 平気?」
「肩、が……」
「肩? 捻った? 病院いく? 接骨院って朝からやってっかな」
「待て、ただの打撲なのだよこれぐらい。大袈裟なやつだな」
 ベッドの枕元に置いてあったメガネをかけると、緑間はやっと目が覚めてきた様子だった。しかし首をぐるりと回した途中で短く舌打ちしたので、やっぱりそれなりに痛みがあるに違いない。
 高尾は冷凍庫に入っている保冷剤をタオルでくるんで緑間に手渡した。それから薬箱に入っているキネシオテープを取り出す。ふたりとも至って健康な生活をしているため、この家にある薬箱の中身はややお粗末なものだ。風邪薬と痛み止め、それから絆創膏と消毒液ぐらいしか入っていない。近所に夜中までやっているドラッグストアがあるので、必要なときはどちらから都度買ってくればそれで事足りるのだ。
 その分といってはなんだが、テーピングや湿布の類はスポーツ選手らしく充実している。もう高校生の頃ほど全身全霊をかけてバスケをしているわけでもないが、身体を大切にした方がいいに越したことはない。
「上げると痛い?」
「少し。だがこのぐらいなんともないと言っているだろう」
「だーめ、オレが気になるっつの! もし引っ張るようだったら絶対病院いけよ、真ちゃんの大事な肩なんだから」
 パジャマを脱がせると高尾は緑間の肩にテープを貼ってやった。肩の前後から腕にクロスするようにし、その上から50%ぐらいのテンションで留める。高校生の頃、一度出た応急処置の講習会で習ったやり方だ。何もしないよりましだろう。
 緑間は高校在学中、毎日テーピングを欠かさないほど指を大切にしていた。だから勘違いしがちだが、だからといって指以外を疎かにしていたわけではもちろんない。走るためには足も必要だし、シュートを安定して打つためには肩ももちろん、バスケをするには全身で使わないところなどないのだから。それにバスケをしなくなったとしても、緑間はいずれ医者になる。メスを持ったりするような医者になるのかどうか高尾は知らないが、何にせよ身体は大事にしなくてはならないのだ。
「それにしても真ちゃんって寝相めっちゃ良いのに珍しいな。びびった」
「……夢見が悪かったのだよ」
「あー、追っかけられる奴とか? オレもたまにビクッてなって起きることある」
 一人で寝てる時限定だけど、とは心のなかで付け足しておく。まだ本来起きるには早すぎる時間だが、外の天気はよく風に当たったら気持ちがよさそうだった。折角時間があるから洗濯でもしようか、と考えながらベランダへ続く窓を開けようとした高尾は、鍵に伸ばしかけた手を緑間に遮られ振り返る。
「だめだ」
「ん? 開けても多分もう寒くねーと思うけど?」
「そうではなく、その、」
 しばし言い淀んでから、緑間は「お前がそこから落ちる夢を見た」と小さな声で言った。おれが? と高尾は首を傾げる。と同時に緑間が珍しく(むしろ初めてのことかもしれない)ベッドから落ちる、などという自体に陥った原因がそれだということに思い至り、笑うに笑えず困ってしまった。
「大丈夫、絶対落ちねーよ」
 洗濯は予定通り今日の講義が終わって帰ってきてからにしよう。高尾はそう決めて振り返ると、緑間の腰に手を回してぎゅっと抱きついた。緑間は3限からのはずだが、高尾は2限から授業があるので先に家を出なくてはいけない。今日ばかりは緑間を一人で放っておくのがしのびなくて、いっそこれから休講になってくれやしないだろうかと真剣に考えた。バイトだって出来るだけ早めに帰してもらおう。そんなやや過保護じみたことを考えながら、真ちゃん今日は一緒に寝ようね、とささめいた。