明日のごはん

 子供の頃、俺は大人になるのがとてもこわかった。
 なんてかっこよく言ってみたりして。子供の頃といってもそれはまだほんの数年前のことで、成人して一応は社会人という身分になった今だって何をもって「大人」というのか、実際のところよくわかっていない。俺はいま大人になっているのだろうか。この数年間で変わったことはたくさんあるはずなのに、何も変わっていないような気もするので判断しかねるところだ。なぜなら俺の隣には今でも真ちゃんがいて、相変わらず愉快な日々を送っているのだから。


 早朝ぶりに帰ってきた俺の家は窓からたっぷり入り込んでいた日光のお陰で暖かく、外よりも湿度が高いのか、とろみのあるような空気に変化していた。そのままラグの上に寝転ぶと1日分の疲れがどっと身体にのしかかってくる。今日はよく遊んだ。おとなげないほど真剣になった。楽しかった。
 潮干狩りに行こう、と思い立ったのは昨晩眠りに落ちる直前のことで、その数時間後には眠くてぐずる真ちゃんを車の助手席に乗せて高速に乗っていたのだから我ながら素晴らしい行動力だと思う。木村さんにクーラーボックスを借りて、熊手は宮地さんから借りた。木村さんは店の準備があるので朝はやくから起きていたが、電話で叩き起こすことになった宮地さんの機嫌はそりゃあもう最悪だった。それでも今日は久しぶりに真ちゃんと休みがかぶる休日なのだ。
 そうしてたどり着いた潮干狩り場は、多くの家族連れでそこそこの混雑を見せていた。取った貝を入れる網を買って、あとはそれがいっぱいになるまでひたすら貝を取ることに徹した。車に乗せた時にはまだ頭の回っていなかった真ちゃんは、高速に乗って暫くしてから状況を把握してぷりぷりしていたが、いざ着いてみれば結構面白がって潮干狩りに精を出していたのだから結果オーライだ。おは朝のラッキーアイテムが長靴だったのもよかった。俺はビーサンをはいていたけれど、貝の破片かなにかで怪我でもしたら大変なので、真ちゃんが長靴を履いているのは安心ってもんだ。ずっと屈んだ姿勢でいなくてはならないので背の高い真ちゃんは大変そうだったが、何事にも人事を尽くす姿勢は大人になっても変わらない。途中で泥だらけの迷子を保護して親御さんを探してやったりもしたが、その一件を除けば数時間、網がいっぱいになるまで俺たちは黙々とひたすら砂を掘り返していた。同僚の女の子にこのことを話したら、久しぶりのデートがそれってどうなの、と苦笑いされるのは確実だ。
 数時間かけていっぱいにとったあさり達はもちろん持ち帰ってきて、色々と借してくれた木村さんと宮地さんにもお裾分けした。大坪さんにも分けてあげてください、と多めにあげたというのに俺たちの手元には思ったよりたくさんのあさりが残ってしまって、この先数日の食事は確定したようなものだ。思いの外夢中になりすぎたようだ。炊き込みご飯、酒蒸し、味噌汁、パスタ、思いつくかぎりの料理にしよう。いつも多忙にしている真ちゃんが早く帰ってくることができて、且つ夕飯を俺の家で一緒に食べてくれたらあとはもう言うことはない。

「真ちゃんあさりはー?」
「塩水につけておいたのだよ。これで砂が抜けるのか?」
「うんうん、ありがと」
 ラグの上に寝転んだまま、俺は台所から部屋に入ってきた真ちゃんの姿を見上げた。床の高さから見上げると真ちゃんの長身はまるで巨人である。あとは砂の抜けたあさりを、今日はどんな料理にして食べるか考えるだけでいい。幸いなことに行きも帰りもたいした渋滞には巻き込まれなかったので、時間はまだ夕方過ぎといったところなのだ。
 今日楽しかったね、と言うと、真ちゃんは「突然呼び出されたと思ったら」「首筋がヒリヒリする日焼けしたに違いないのだよ」といくつか文句を並べ立ててから「早く食べたい」とのたまう。この素直じゃない物言いもすっかり慣れたものだ。
 真ちゃんの趣味はどれもこれもインドアと見せかけて、実は外で遊ぶのが結構好きらしい、ということに気付いたのは大学生になってからのことだった。ピアノだの将棋だのも当然好きなのだろうけれど、実際のところ、外で遊ぶような友達がそれまでいなかっただけだったらしい。山も海も日焼けするだの虫がいるだの嫌がるだろうなあ、なんて俺は勝手に思っていたが、誘ってみれば案外あっさり真ちゃんは一緒に出掛けてくれるのだ。山に登るのも綺麗な海に潜るのも真剣そのものだったので、まあ、デートというよりは本気でアウトドアを楽しむといった雰囲気が強いのだけれど。
 でも、俺だってそういうのは嫌いじゃない。俺と真ちゃんは今でも親友だから。
 まだ制服を着ていた頃、俺は大人になるのが怖かった。理由がなくても毎日会うことができて、俺と真ちゃんは相棒同士で、一緒に毎日バスケをしていられた。たとえば卒業して離れ離れになって、あるいは告白して、ふたりの関係が少しでも変わってしまうのが恐ろしかったのだ。
「寝るのか?」
「んー……1時間ぐらいしたら起こして。メシ作っから」
 さすがに早朝に起きて準備をして往復の運転もしたからか、横になっているとだんだん眠たくなってくる。ラグの上にだらしなく置いていた頭の下に、隣に寝そべった真ちゃんの腕が差し入れられる感触に俺は伏せていた瞼を開いた。ねぎらいか気まぐれか、はたまた1日遊んで満足したからか、今日の真ちゃんはサービス精神が旺盛のご様子だ。


 俺と真ちゃんは恋人同士だけれど今でも一番の友達で、たとえば、いつかこの恋が冷めてしまったとしてもその事実だけはきっとなくならない。大人になってしまっても。そしてそれは、とても幸せなことだと思うのだ。