高尾和成、1日雑用係

「ぎゃっ」
 後ろからショルダー部分が引っ張られた感覚に高尾は変な声を上げて振り返ったが、原因はなんてことない、ただ背負っていた荷物が電車のドアに挟まってしまったせいだった。一瞬開いた隙間から荷物を車内に引きこむ。無理なご乗車はおやめください、というアナウンスにため息をついたのは先に乗り込んでいた宮地だ。
「お前なあ……」
「だってこんな荷物しょってるから仕方ないじゃないっすか!」
「電車の中は静かにしろ」
「木村さんまで〜……」
 挟まれたせいでバランスが崩れてしまった荷物を背負い直す。3つ用のボールバッグを二つ重ねて肩に掛けているのは、どうにもかさばってバランスを取るのも難しい。けれど文句は言えない。なにしろ今日の高尾は「ただの雑用係」なのだから。
 練習中に滑って転倒し、足を捻ってしまったのは5日ほど前のことだ。軽い捻挫で済んだものの、大事をとって一週間ほどは練習を休むようお達しが出た高尾はものすごく落胆した。なぜなら数日後――つまり今日、神奈川のとある強豪校と練習試合の日程になっていたからだ。
 以前から海常が頭半個分、黄瀬を獲得してからは2つ分ほど飛び抜けた実力で全国出場の座を守り通しているものの、本来神奈川は高校バスケの激戦区でもあるのだ。毎年2位以下はかなり入れ替わると聞いている。そんな強豪校揃いの中で王座を守り通す海常が強いのは周知の事実であるが、その海常に食らいつくチームも沢山あるということだ。今日秀徳が練習試合を組んでいたのは、その中でも昨年のインターハイ予選神奈川2位の学校なのである。
 強いチームと練習試合が出来るのはとても有難いことだ。だから今日を楽しみにしていたのはもちろん高尾だけではなく、先輩たちも珍しく緑間も、いつにも増して気合を入れていたというのに。
「まさかの1番不在だし?」
「うっ……すいません……」
「だからお前はだめなのだよ。せいぜい雑用に専念しろ」
「真ちゃんまで……」
「まあでも大事なくてよかったじゃないか」
「はい……」
 最後は大坪に頭をわしわしと撫でられながら、高尾は電車の揺れに巻き込まれないようにバランスを取る。
 そしてたまたま今日はマネージャーのうち一人が休むことになってしまい、学校での二軍以下の練習と分散することができなかったため、試合に出ることができない高尾は雑用係を仰せつかったというわけだ。荷物持ちもその一環である。といっても持ち運び用のボールケースやクーラーボックスは重たいので、緑間や他の1年が持ってくれているのだが。もう痛みはほとんどないので申し訳ない。1軍にいる1年生はほんの数人なので、2年生の先輩たちも何人か荷物持ちをしている。
 出られないとはいえ貴重な練習試合だ。少しでも収穫があるように、自慢の目を駆使してでも試合をくまなく見てやるぞ。高尾はそう意気込んで、落ち込みそうになる気分を鼓舞した。

 ――のだけれど。

「すっげえ……」
 と漏らしたのは、隣に座っている相手チームの1年生だ。
 秀徳はインターハイに進むことができなかったので、都外の選手で緑間のプレーをじっくりみたことがある者は中学時代に全国区の選手でないかぎり少ないはずだ。キセキの世代という呼称だけはたびたび雑誌等にも取り上げられたし、バスケをしている同年代なら必ず一度は聞いたことがある名前だったとしても、噂で聞くのと実際目の当たりにするのでは天と地ほどの差がある。
「タイマー」
「あっ、はい」
 呆気に取られているせいで止まっている手を指摘しながら、高尾もまたごくりと生唾を飲み込んだ。ぎゅっと手に持ったペンを握り直してコートへと視線を戻す。
 試合が始まってしまえば特にやることもないから、と、アップを終えると同時にドリンク類やベンチの用意を済ませた高尾はテーブルオフィシャルに入った。相手チームは強豪校とはいえさほど部員が多くはないようだったし、こういうのは半々に負担するものだ。どのみち高尾が試合に出ることはないし、反対側の得点板にも秀徳から人を出している。
 緑間の試合をこうして外から観る機会は、思えばこれまでほとんどなかった。最初の出会いもコートの中だったし、チームメイトになってからは同じユニフォームを着て身体を並べている。練習中のプレーを見るのは毎日していることだけれど、それと試合とはまったく別物だ、ということを高尾は身に染みて感じていた。オフィシャル席といういわば中立な場所から見る緑間はやはり圧倒的で、「うちのエース様すごいっしょ」なんて軽口を叩くことなんて到底できそうにない。打った瞬間に入ると確信しているはずなのに、ボールが高いループを描いてリングに迫っていくのを見ている間、高尾はこれまでにないほどドキドキしながらその軌道を目で追った。ゴールリングをくぐるのを見届けて一瞬呆けてしまってから、はっとした高尾はスコアシートに書き込んだ6番を丸でかこむ。手が心なしか震えてしまうのは、スコアをつけるのが中1の時ぶりだからだと自分の中で言い訳をした。高校では入部してすぐ試合に出るようになったので、試合中の雑務をそういえばほとんどしていない。
 パスを受け取ってモーションに入る瞬間ほんの少し肘を引くのも、ゴールに向かって利き足が若干前に出るのも、見知った緑間のものだ。ただ違うのはパスを出すのが自分ではないということ。
「6番スリー。……キセキの世代すごいですね」
「6番。まあ、俺が言うのもアレだけどマジですげー奴なんだわ」
 タイマーとは反対側、アシスタントと確認の合間に高尾は頷き返した。逐一マニュアル通りの確認なんてしなくても、あんなシュートを打てるのは6番以外にいない。第3クオーターに入った段階で、ランニングスコアには通常ではありえない数の丸印が記入されていた。緑間の存在にすっかり慣れきっていた高尾だが、さすがにスコアをつけているうちに空恐ろしい気持ちになってくる。もちろん他のメンバーの得点も多いが、スリーはすべて緑間の得点である。
「でもスタメンはえっと、高尾君? って聞きました」
「ああ今ちょっと怪我してて……、4番」
「はい」
 高尾はスコアを記入しながら、まるで自分の知らないチームを見ているかのような気持ちで試合を目で追っていく。高尾がいなくともボールは外から中へ繋がれるし、決して緑間一辺倒なプレーに偏っているわけではない。なのにどうしても、緑間がボールを持つと視線がそこへ吸い寄せられてしまうのは止めようがなかった。審判もいつか一度はやってみたいと思っていたが、少なくとも緑間の出る試合ではだめそうだ。
 そんなことを考えながら手を動かしているとベンチから交代の声が掛かったので、高尾は手をクロスさせサインを出す。
 外されたのは緑間だ。当然だけれど緑間を温存する場面でのフォーメーションも何パターンか用意されているので、高尾はすぐに新しい形の実践なのだとわかった。
 コートから出た緑間が一礼していく時、やたらと意味ありげな視線を向けられた気がする。が、すぐさま再開された試合を追うことに集中しなくてはならなかったので、高尾はすぐにスコアをつける作業に戻ったのだった。 


 *


 合同練習も少し交え、メンバーを変えつつ二試合行なってから学校に戻ったのはちょうど二軍らの練習が終わるのと同じぐらいの時間だった。
 二試合のうち半分以上出ていたくせにそれでもシュート練習をしていくという緑間に付き合うことにして、高尾は雑用係よろしく遠征用の荷物を用具倉庫にしまうことにした。体育館に残っているのは緑間と高尾だけだ。普段なら居残り練習をしていくのは緑間と高尾だけではないのだが、試合のほとんどの時間出ていた宮地などはすっかり疲れた表情を浮かべていて、さすがに今日は帰ってゆっくりするそうだ。
 ついでに倉庫の整頓もしてしまうと、緑間はいつものように黙々とシュートを打っていた。試合のときも練習中もフォームは乱れない。何千本も何万本も積み重ねてきたからだ。
「終わったのか?」
「終わったぜ。ついでになんか他の片づけもしちった」
「なら軽くパスを出してくれ」
「りょーかい! 俺もボール触りたかったんだよな」
 手首を軽く回して、渡されたカゴから取ったボールを数度バウンドさせてから胸元へまっすぐパスを出す。この数日、高尾は走り込み以外の筋トレしか参加できていなかったのできちんとボールに触れるのは久しぶりだった。ボールの溝が指先に引っかかる感触すらどこか新鮮味を感じてしまう。
 緑間の手元に収まったボールはゴールネットをわずかに揺らして床に跳ね返る。その光景を見ると高尾はなんだかほっとした
心地がして、ナイシュ、と声を上げた。
 やはり同じコートから見ているのがいちばんいい。敵だった時よりも、外から見ているよりも、ずっとしっくりくる。肩を並べるようになってからまだ1年も経っていないけれど。
 高尾はカゴの中身が空っぽになるまで緑間にボールを出し、終わってしまうと深々と息を吐いた。ボールを拾い集めながら、どうしても思い出すのは今日の試合の様相である。コートにいる緑間を外から見ている自分。ひょっとしたら現実になっていたかもしれないことだ。高尾は緑間と違って運命だの星回りだのはこれっぽっちも信じていないが、二人ともが秀徳に進学したという事実だけは何度考えてもすごいことだと思う。それこそ天の采配かもしれない、なんてらしくないことを考えるぐらいには。
「俺も真ちゃんとがっつりバスケしてーよー、ワンオンワンでいいから!」
 右手でドリブルをつきながら言うと、余計に足元がむずむずしてくる。緑間がそれを見咎めて、「バッシュのヒモもきちんと締めてない奴が何を言うのだよ」とメガネのブリッジを押し上げた。
「きつく締めたらいい?」
「だめに決まっている。癖になったら困るだろう」
「もう全然痛くないんだけどなー、ま、それこそホントに試合出れなくなったらヤだしな」
 これまでも気は遣ってきたつもりだったが、怪我と体調には本当に注意しなくてはならない。緑間と一緒に試合に出れないのは今日だけで充分だ。もちろん戦術の都合で高尾がベンチにいることだってあるけれど、それと「出ることができない」のは根本的に違う。練習試合だったがだいぶ堪えた。
 それに、今回は軽い捻挫で済んだからいいものの、いつ大きな怪我をするかなんて誰にもわからない。中学時代にもリバウンドの接触で転倒しよくない方向に足を捻ったチームメイトが靭帯を痛めてしまって、サポーターで固定しなければ走れない状態になってしまったことがあった。バスケはかなりハードなスポーツだし、怪我で選手生命を絶たれるという話はたくさんある。
 そして高尾の抜けた穴は他の誰かが埋めるのだ。今日みたいに。

 相棒だ、なんて自信満々に口にしてみても、その足元は思っているよりずっと脆い。

「真ちゃんはさ、別に俺以外とも普通に組めんだよね」
「……なんだ藪から棒に」
「俺今日試合出れなかったけど勝ったよなーと思って」
「俺がそう安々と負けを許すはずないだろう。それにパスを出せる人間なら誰だって可能性はある」
「だよな」
 パス回しがうまいガードなんてごまんといる、わざわざ言うまでもないことだ。
 満杯になったカゴから再びボールを取って緑間に渡す。さっきより5歩ほど下がった位置から、少し滞空時間の伸びたシュートはやっぱり綺麗にネットをくぐった。
「……馬鹿が体力を有り余らせているとロクなことにならない典型だな」
「へ?」
「お前より優秀なパッサーなどたくさんいる。が、俺と今までやってきたのはお前だろう」
 緩くドリブルしながらノーチャージエリアまで歩いて行った緑間は、珍しくゴールのすぐ近くからボールを放った。本来なら軽くダンクも出来るほど上背があるので、ゴール下からだとシュートを打ったというよりほとんど軽く放り込むような感じになってしまう。
 高尾はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、緑間の「俺のシュートと同じなのだよ」というセリフを聞いた。
 ゆっくり咀嚼して飲み込むみたいに言わんとしていることを理解した高尾は、思わずその場にしゃがみこんで膝の間に顔を埋めた。つまり、つまりここまで二人で積み重ねてきた練習だとか信頼だとか、そういうものに重きを置いてくれているということでいいのだろうか。高尾より巧いプレイヤーがたくさんいる、と言い切られたのは少し不服ではあるけれど、そのあたりはここから挽回していけばいいだけの話だ。しかし、それにしても。
「真ちゃんそれへたな告白より破壊力やべーんだけど……?」
「俺は下手な告白などしない」
「そーゆーこっちゃなくってな!?」
 高尾にとって、バスケのことで認めてもらえるのは普通に好きだと言われるよりずっとずっと嬉しいことなのだ、ということを緑間は分かっているのだろうか。
 地団駄を踏みたくなるのをなんとか我慢して、高尾はのろのろと立ち上がるとボールをひとつ手にとった。シュートを軽く打つくらいならさすがに咎められないだろう。スリーポイントラインから慎重に放ったボールは、しかし僅かなブランクのせいかバックボードに跳ね返って床に落ちてしまった。緑間がそれを拾い上げてもう一度ゴールを通してくれる。
「そうだな、体力が有り余ってどうしようもないというなら……」
「なら?」
 緑間はおもむろに言葉を切りしばし考え込んでから、
「そうだな、懸垂でもしていればいい」
 と、高尾が微かに抱いてしまったよこしまな期待とはまったく正反対なことをのたまった。なるほど、足に負担を一切かけないトレーニング方法ね、と一気に脱力してしまう。真ちゃんらしいといえば真ちゃんらしいけれど。
 高尾は火照った頬に手の甲をくっつけて熱を感じながら、「ありがとね」と口にした。とにかく早く雑用係から相棒に復帰してしまわなければ。エース様を待たせておくわけにはいかないのだから。