魔法の糸電話

 紙コップは台所のシンクの上、普段あまり使わないらしい調理器具がしまわれている場所に入っていた。確か、春先の、町内会のお花見かなにかのときに用意したものの残りだと言っていただろうか。それを二つ拝借した。タコ糸はいつだったかのラッキーアイテムなので部屋にあった。千枚通しで紙コップの底に小さな穴をあけ、そこに糸を通し、抜けないように固定すれば完成だ。軽く糸を引っ張っても壊れないことを確認してから、オレはふうと息を吐いた。
 明日のラッキーアイテムは「糸電話」で、家にあるもので簡単に作れるからありがたかった。厄介なのは作るのに手間がかかるものだとか、手に入りにくい希少性のあるもの、高価なもの、大きすぎるもの、なまもの等いろいろとある。ともかく、順位はどうであれこれで明日はつつがなく1日を過ごすことが出来るだろう。ラッキーアイテムの有無によってオレが被る不運の数々を両親は知っているし協力的であるから、多少値が張るものでも資金に困ることはないけれど、お金をかけずに用意できるものの方が良いに越したことはない。ラッキーアイテムも用意してしまったし、日課にしているストレッチをこなして早く眠ってしまおう。バッグに入れたら形が崩れてしまいそうだったので小さめの紙袋に糸電話を入れ、オレは目覚まし時計をいつもの時間にセットした。


 ☆


「今日は小さいし軽いし良かったなあ」
 頭の後ろで手を組んで、大仰な動作で前を歩いている高尾が楽しげに言った。歩き方にまるで落ち着きがないから、少し低い位置にある頭がひょこひょこ上下しているのが視界にうるさい。ただでさえ高尾は目を引く男なのだから、少しは大人しくしていればいいのに。
 安易に持ち運びが楽ならいい、と高尾は言うが、ラッキーアイテムはそれ自体の存在にも意味がある。とオレは思う。たとえばラッキーアイテムが犬だったとして、そうなればオレはペット同伴不可の店には入ることができない。逆にいえば、その店に入ったらオレにはなにか不運なことが起こるというわけだ。それを回避、すなわち運気の補正をするのもラッキーアイテムの役目なのだ。だからたとえ大きくて嵩張るものでも疎ましがったりしてはならない。という説明をしたはずなのだが、高尾はまったく理解していないようだった。もっとも理解していようがいまいが変わらないのだが。
「せっかくだから使おうぜ、これ!」
 既に殆どひと気のない廊下に、高尾の楽しげな声が響く。ついさっきまで居残り練習を気張りすぎてバテていたうえ、これからどうせリアカーを漕ぐはめになるというのに。
 何がそんなに面白いのか解らない、と気分を害するばかりだったはずの高尾の言動を、心地よいものだと思うようになってしまったのはいつごろからだったろうか。
 とはいえ高尾だって常にこう振舞っているわけではない。軽薄そうに見えても実は色々なことを考えているし、真摯で真面目なきらいのある男なのだ。オレの前ではふざけた態度でいることも多いけれど、それだけじゃないことは既に知っている。
 それから――
「お? 糸電話っつーからナメてたけど結構長いんだなこれ」
「コップを大きくするわけにはいかないからな」
「なるほど。でもまあナイショ話感は出っか」
 まとめてコップの周りに巻きつけられていた糸をほどくと、高尾は薄暗い廊下を昇降口とは反対に歩いていく。糸がまっすぐ張られるまで進むと、ちょうど廊下の端から半分ほどまでの距離になった。糸がたるんでいたり、なにか障害になるものが触れてさえいなければ、長い距離でもきちんと音は伝わるのだ。
「真ちゃん、耳あてとけよ!」
 部活動の終了時刻を過ぎた後も学校に残っている生徒はほとんどいない。静まり返った校舎の中では、たとえ多少距離が離れていても普通に会話することができるのだが。
 糸が軽く引っ張られていることを確認しながら、オレは紙コップの口を耳元に宛がった。今日1日つつがなく過ごせるよう運気を正してくれたラッキーアイテムなのだから、本来の使い方も少しはしてやるべきだと思ったからだ。
 1日肌身離さず持ち歩くものにはそれなりに愛着がわく。だからラッキーアイテムは消耗品でない限りなかなか捨てることができなくて、家にどんどん溜まっていってしまうのだ。
『真ちゃん好きだよ』
「っ!?」
 本当にナイショ話のような小ささで、けれど伝ってきた紙コップの中は小さなスピーカーのように高尾の声を反響させた。真ちゃん好きだよ。
「お、お前は、何を言ってるのだよ!」
 そう大声で反論してしまったのは驚きからではない。廊下じゅうにけたたましく声が響いてしまって少々ばつの悪い気持ちになったが、そもそも原因は高尾なので、オレは悪くない。今が人のいないような時間帯で良かった。いや、むしろ悪かったのか。
 驚いたわけではない、というのは、そうだろうというほとんど確信にも似た予想をしていたからだ。恋愛ごとに対する疎さを黄瀬には猿だと揶揄されたこともあったが――実際オレはそういった色恋ごとにとんと疎い自覚もあるけれど、それにしたって高尾は、いっそわざと解らせようとしているのだとしか思えない態度をとってくるからだ。思わせぶりな言葉も、時折触れてくる手も、真ちゃんと呼ぶ声が時々ものすごく熱っぽいことも。猿のセックスアピールのほうがまだわかりにくいのではないだろうか、と思うほどあからさまに。だから、つまり、高尾はオレに対して好意を抱いているのだ。多分、おそらく、――ひょっとしたら。
 あくまでも推測の域を出ないのだけれども。
「え、そんな怒ることねーじゃん!?」
「だってお前、」
「試験範囲ぐらい教えてくれたっていーだろー」
「は?」
 あれ、ちゃんと聞こえてなかったのかよ、古典の範囲メモるの忘れちゃって、と言う高尾の調子はいつも通りのものだった。ひょっとして本当に空耳なのかと思ったが、どう考えても古典の話なんて高尾は一言もしていない。春に行われた健康診断だって、聴力はきちんとAだった。
 じゃあさっきのは一体なんだ?
「てーか真ちゃんもなんか言ってみてよ! 糸電話通すとちょっと低くなったりすんの?」
「……いや、」
 高尾はコップを耳元に当てると、くいくいと促すように糸を軽く引っ張ってくる。とはいえ改まって言うようなことなんて何も思いつかない。
「あー……、古典、は方丈記の前半までだ」
『真ちゃん、オレお前のことホントに好きなんだぜ』
「…………おしるこが飲みたいのだよ」
 おおよそ会話になっていない会話だが、高尾が本当は何を言ったのかわからないので返事も出来ない。糸を伝わってくる間に高尾の声が変質してしまったのだろうか。あまりにも非現実的すぎる。魔法か何かでもない限りありえないことだ。
 けれど、これが本当のことなら良いのに、と思うのもまた事実だ。
 いつだって隣にいてベタベタうるさく構ってくるくせに、あと一歩は絶対に踏み込んでこない高尾の本音だったなら。
「ぶはっ、んじゃー食堂脇の自販機寄ってこーぜ!」
「ああ、」
 どうやら緑間の言葉はそのままきちんと伝わっていたらしい。糸がからまないようにくるくるまとめながら駆け寄ってきた高尾と肩を並べると、いつもの距離感に少しだけ安心する。と同時に少し胸がざわついた。試合前の高揚感とも少し似ているが、それよりもう少し上のところがむずむずしている。
 高尾はやはりオレの少し前を歩いていった。今度は廊下の真ん中にひいてある線の上を歩くことにしたらしく、あたかも平均台の上を歩いているかのように両手でバランスを取っている。
 その後ろ姿を視界に捕えながら、自分の手に戻ってきた何の変哲もない手作りの糸電話をオレはまじまじと眺めた。今日のラッキーアイテム。オレにとってよりよく1日を過ごすためのもの。魔法の糸電話。だからといってもう一度と強請ることもできず、オレは下駄箱からおしるこのある自販機まで遠回りする道をついていくしかないのだ。
 たとえば今ここで高尾を抱きしめることができたら、現実のことになるのだろうか。