加護を得る少年

 緑間真太郎には、常人には見えないものが見える。
 そのことに初めて気づいたのは、彼が小学校にあがって間もない、まだほんの子供の頃のことだった。

 そもそも緑間の視力が悪くなったのはとても早く――というより良かったことがなく、幼稚園の年長の頃には既に眼鏡を掛けて生活していた。一般的に子どもは生まれた直後から三歳ごろにかけて視力が安定していくと言われているが、緑間の視界はその年の頃を超えても他の同年代の子どもたちよりも悪かったのだ。両親はともに視力がよかったので、あれこれ心配しては視力回復をうたった医師の元を訪ねたが、器質弱視であると結論づけられた緑間の視力は結局大幅に向上することはなかった。
 まだ幼い時分から眼鏡をかけているこどもは珍しかったのだろう、時々外した眼鏡をいたずらで隠されたり、からかわれたりしたことは何度かあった。それから外遊びの時は少しわずらわしく思うこともあったが、顔にあうサイズの眼鏡があれば他に不便なことはなにもなかった。


 最初に緑間が「それ」を見たのは、8歳の時だった。
 母親が二人目を妊娠していて、予定日も近くそろそろだろう、と言われていたある日のことだった。触れれば時折中で赤ん坊が動く感触が伝わってくるし、真太郎はもっとおなかを蹴ってやんちゃだったのよ、と話してくれる母はとても嬉しそうだった。下の子が妹だと聞いて緑間も生まれてくるのをとても楽しみにしていたが、同時にものすごく心配もしていた。母のお腹は大きく、そのなかに人間がもう一人入っているということを、なかなかうまく想像できなかったからだ。どうやって出てくるんだろう、おかあさんのお腹が裂けたらどうしよう、と後になって思えばまるで見当違いな不安を抱いていた。
 緑間がその日学校から帰ったとき、家は無人だった。いつもなら出迎えてくれる母の不在を不安に思いながらランドセルの内ポケットに入っている合鍵を使って家に入ると、リビングには置き手紙が残されていた。妹が生まれそうだから母は病院にいること、父が迎えにくるまで留守番をしていて欲しい、というメモ書きに緑間の好きな懐中しるこがふたつ添えてあった。おやつの時に毎日のようにねだっては、いっこだけね、と言われているものだ。
「……病院に行かないといけないのだよ」
 緑間はそう言って玄関に取って返すと、玄関の鍵をきちんと閉めて駈け出した。母親の検診には何度かついていったことがあり、病院までは歩いて20分もかからない距離だということを覚えていたのだ。
 家を出て二番目の信号までまっすぐ、それから大通りに出て、よく買い物をしているスーパーの前を通りすぎたら和菓子屋さんの角をひだりに曲がってまっすぐ――
 記憶の通りに走ったはずの緑間は、ふ、と知らない道に出てしまったことに気づいた。どこかで道を間違えたのか、記憶違いか、いくら進んでも病院に辿り着かない。緑間は途方に暮れた。家に電話したところで誰もいないし、病院の電話番号はわからない。はっきりと記憶にある道まで引き返すしかないと思ったが、それだってきちんとたどり着ける保証もない。
「どうしよう、」
 母のところにいかなければならない。でも道がわからない。不運なことに住宅地の一角は人通りがなく、尋ねられそうな人は見受けられない。どうしようどうしよう、と焦りながら三叉路の交差点に出たところで、目いっぱいに溜まっていた涙が零れた。
 実際は家からそう離れた場所ではなかったが、一人ぼっちで迷子になり、おまけに母は病院にいるという状況は不安でしかなかった。
 緑間は眼鏡を外して、袖口で目元をごしごしと拭った。その拍子に、交差点のところに立っている標識がふと視界に入って、涙で滲んだ瞳をぱちぱちと瞬かせる。
 視力が悪く、離れた場所のものはすべてぼやけて見える視界のなかで、それだけやたらとはっきり目に入ったからだ。
 よくある青い標識は、分かれ道の先がどこへ続いているか示すものだ。その矢印が、ひとつだけ、はっきり見えた。
 そっちだ、と思ったのは直感だった。示す方へ曲がってしばらく歩いてみると、見知った通りに出て、そのおかげで緑間は病院へひとりでたどり着くことができたのだった。母は驚いたし、どうしても抜けられない仕事を終えてかけつけた父からは言いつけを守らなかったことを少しだけ叱られたが、一人で病院まで来ることができたのは褒めて貰えて嬉しかった。その数時間後には無事に妹も生まれ、緑間は、あのとききっと神様が道を教えてくれたにちがいない、と思った。

 ところが、不思議な出来事はその一度きりではなかった。

 何かスポーツでも初めてみたら、と勧められたときにバスケットボールを選んだのも同じような出来事が切っ掛けだった。高校を秀徳にしたのもそうだ。ジュニアクラブの一覧でバスケの文字が目に入ったから。迷った末机の上に並べっぱなしだった高校の入学案内で、秀徳のものが目についたから。どうやら、それがなにか迷っていることがあるときに選ぶべき「正しい」道を指し示してくれる指標のようなものらしい、と理解したのは高校に入学してからだ。
 中学時代キセキの世代と謳われた5人には当然ながらたくさんの高校からスカウトがきていて、緑間もいくつかの学校でしばらくの間悩んでいた。条件はどこもほぼ一緒で、当然ながらバスケの強豪校である。その中から学業にも人事を尽くせそうな高校を選び出すと、秀徳と、もう一つ候補が残った。
 その頃には相談できるような友人もいなかったし、親は好きなように決めなさいと一任してくれていたので、進学先は一人で決めねばならなかった。
 秀徳と同様に候補に残っていた高校は他県だったが、寮や体育館の設備がよく、食事にも困らないし、学業の面でも申し分のないレベルの学校だった。けれど結局秀徳を選んだのは、さんざ悩んでいたある晩、疲れた目元を指で押さえるために眼鏡を外したほんの一瞬、秀徳高校のパンフレットがやたらはっきりと目に入ったからだった。
 そうしなければならない、と思った。だから緑間は迷わず秀徳に進むことを決めた。

 そしてもう一方の候補だったその高校では、部員の起こした不祥事によってバスケ部がその後しばらく活動停止になった。そちらに進んでいたら、緑間はそもそも大会に参加することすら敵わなかったのだ。
 そのニュースを知らされ、うちは大丈夫だと思うが素行には充分に気をつけるように、と監督がとうとうと語るのを聞きながら、緑間は運命という言葉について考えていた。



「信じるよ」
 ともすればオカルトチックで、嘘っぽい、荒唐無稽な緑間の話をあっさりと高尾は受け入れた。どれどころか「真ちゃんは人事をつくしてるから、神様がご褒美をくれたんだろ」と笑って、緑間の肩のあたりに頬をくっつけてくる。高尾和成という男と出会ったのも、秀徳高校を選んだゆえの幸運である。
「それに真ちゃんのおは朝パニックをこんだけ見てりゃなあ、信じるしかないっしょ」
「おは朝はよく当たるだけなのだよ」
「はいはい」
 笑った高尾の吐息が肌にかかってくすぐったい。だが暖かさは心地よかったので、緑間はくすぐったさを我慢して半端に掛かっている布団を引き上げた。
 生身の肌を触れ合わせるのが気持ちいいことだなんて、緑間は高尾と出会うまで知らなかった。お互い高校生で実家暮らしの身であるから一晩中そうして過ごすことはできないが、親やきょうだいの目を盗んで身体を重ね、そのあとのほんのすこしの時間裸のままくっついているのが心地よくてたまらない。触れ合った部分からお互いの体温が混ざり合って、だんだんと同じになっていくのは素直に幸福だと思える。
 そんなふうに和やかな気持ちだったので、緑間はこれまで誰にも言うことのなかった「不思議な目」のひみつを、高尾にだけ打ち明けたのだった。
 高尾は緑間にとって初めてできた相棒で、親友で、恋人だ。彼と出会うことができたのも、すべては運命にしたがったゆえの幸運だった。もしも逆らって別の高校に進学していたら緑間はいまごろバスケを満足に続けることもできていなかっただろうし、高尾や、秀徳のやさしくも厳しい先輩たちに出会うこともなかった。それはとても不幸なことに違いない。
「もし背いたらどうなんのかな?」
「さあ……だがおそらく高校のことからして、悪いことになるのかもしれない」
「そっかー、じゃあ絶対に守るんだぞ、真ちゃん」
 真ちゃんが不幸になるのは嫌だからさ。そう高尾は言いながら、緑間の胸元にキスをした。
 選ばなかった可能性について、緑間はそれまであまり具体的に考えたことがなかった。道に迷った日、そのとおりにいかなかったら、事故にでもあっていたのだろうか。誘拐にあったり、迷子になったまま家に帰れなくなったりしたのだろうか。あるいは――
「真ちゃん真ちゃん、そろそろ服着ねーと」
「……ああ」
 思案に耽りそうになっていた緑間だが、高尾が布団の中から出て行ってしまったことで自身も脱ぎ散らかした着替えを手にとった。すう、と肌に触れる空気がやたらと冷たく感じてしまう。あと5分、と柄にもなくねだりたい気持ちはあったけれどそういうわけにもいかないのは理解している。かわりに、シャツのボタンを上から順に留めている高尾の肩を引き寄せると、頬に軽く唇を触れさせてやった。
「真ちゃんさあ」
「なんだ?」
「大学……はまだ実家かも知んないけど、大人になって家出たらお泊りし放題になるじゃん。そしたら朝までくっついて寝よーぜ」
 素直な物言いができない緑間の真意をそれとなく悟ってくれる高尾は、何気なさを装いながらそう言ってくれる。顔をやや背けているのは高尾とて照れくさいからだろう。
 と、玄関からガチャンと鍵の開く音がして、緑間と高尾はびくりと肩を震わせる。じわじわと部屋を満たしていた甘い空気を振り払って、あわてて学生服の上着に袖を通した。


 ――なにかとても、よくないことになるのだろう。


 ところが、中学三年の時以来、緑間が「それ」を見ることは長らくなかった。
 何かに迷う、ということ自体がほとんどなくなったこともあるのだろう。大学はもともと医学部に決めていたし、ギリギリまで部活に出ていたから受験は大変だったが、なんとか現役で合格することができた。進学してからはとにかく学業に人事をつくし、空いた時間は高尾と過ごし、彼に二年遅れて緑間も社会人になった。
 医師の仕事が忙しいことは覚悟の上だったし、望んで進んだ道に不満はなかった。高尾も不規則な緑間の生活を理解してくれていたし、二人の関係は相変わらず仲睦まじいまま続いている。高校の頃のように朝から晩まで一緒に過ごすことはできないし、それどころか会える時間は限られていたけれど、休みの日には朝まで好きなだけくっついていられるのは大人になって得た特権である。

 そんなふうに過ごして数年が経ったある日、不意に舞い込んだ見合い話は緑間にとってまさに青天の霹靂であった。

 緑間の父親は、同じく医師をしている人だ。
 医学部を優秀な成績で卒業したあと、勤務医としていくつかの病院を移りながらキャリアを積み、緑間が一人前になった頃には都心にある総合病院で科部長を務めていた。まじめで人望もあつく、緑間にとっても尊敬できる父である。実際に「ああ、あの緑間先生の息子さんか」などといって目にかけてくれる人も多く、人付き合いがうまくない緑間は父の存在に何度も助けられていた。
 そういうこともあって、緑間もまたまじめで優秀な、将来に期待できる若手だと称されている。そんな父が、自らと同じ職業を選んだ息子を誇りに思うのは当然であり、大人になっても女っ気のない息子の様子を心配するのは自然なことなのだろう。
 緑間は、高尾と交際していること――長く交際している男の恋人がいるということ、を親しい数人の友人以外には告げていなかった。そうやすやすと受け入れてもらえることではないだろうからだ。とはいえ、いずれ両親には話さねばならない、とも思っていた。
 そんな矢先に舞い込んだ見合い話を、緑間はどう断るか考えあぐねていた。
 どうしても結婚しろと言われたわけではなかったが、父は立場ある人であり、いただいた話も申し分ないほどよいものであることは緑間も重々承知している。相手は父と親交ある医師の娘で、いまは薬剤師として勤めていると聞いた。一度だけ食事の席を共にしただけの間柄だが、頭もよく、女性にしてはやや落ち着いた声質をしているところは好感を持った。ぎゃあぎゃあとうるさいタイプはあまり得意ではないからだ――高尾を除いては。
 そういうわけで、恋人がいなければ前向きに検討したかもしれない話である。だが、緑間には既に心に決めた人がいる。
「……はぁ」
 緑間は深いため息を吐いて、机の上に万年筆を置いた。碧溜のつややかなそれは、高尾が就職祝いにと贈ってくれたものである。
 ペンなんて何でもいいと緑間は言ったのだが、お医者様が100円のボールペンしか持っていないんじゃ示しがつかないだろ、と高尾が言い張ってきかなかったのだ。はじめのうちは使うのに緊張するし勿体ないしでケースに仕舞っていることが多かった万年筆だが、今ではすっかり手に馴染んで、何か書きものをするときにはいつも使わせてもらっている。
 緑間が書いているのは、つまるところお断りの手紙だった。ところが当たり障りない定型文のような断り文句を並べてみてもどこかしらじらしく、いっそすべて打ち明けてしまおうか、と思うがままに書いた便箋が一枚埋まったところで緑間ははっと手を止めた。縁があったのは非常に嬉しいが自分には既に恋人がいて、その相手は高校の時に出会ったバスケ部の頃からの相棒で、とうに添い遂げる心づもりでいるのだ――
 ――ほとんど赤の他人に、いきなり何を打ち明けるつもりなのだろう。
 緑間は鈍く痛みだしたこめかみを指先で押して立ち上がった。机に向かっていたせいで凝り固まった背筋を伸ばし、首をぐるりと回すとぽき、と音が鳴る。目頭を指先で摘みながら無駄にしてしまった便箋を破ろうと手を伸ばし、
「…………っ、」
 緑間は息を呑み、ぐしゃりと紙片を握りつぶした。


 鍵を開けようとガチャガチャさせているところで、玄関の扉が内側から開かれた。手が震えてうまく鍵穴に差し込めずにいた緑間がはっと顔をあげると、驚いた顔をしている高尾と目が合う。
「真ちゃん!? 急にどーした、ってかお前なんかあったん、うわ」
「たかお」
「ちょ、大丈夫かよ。上着も着てねーし……警察とか呼んだほうがいいやつ?」
 大丈夫だ、という替わりに首を振った。腕の中に抱きすくめた高尾はおそらく急なことに目を白黒させているのだろう、焦った声色でしきりに真ちゃん、と名前を呼んでくれる。
 高尾に言われてはじめて、初冬だというのに上着の一枚も着ないまま家を飛び出してきてしまったことに緑間は気づいた。寒さなんてこれっぽっちも気にならなかった。高尾の身体のあたたかさを感じてはじめて、自分が冷えきっていることに気づいた。
 見えるはずがないものを見てしまった。むしろ勘違いだったのかもしれない。なぜなら緑間は何も迷ってなんかいなかったからだ。
 眼鏡をずらしたほんの一瞬、便箋の片隅に書かれた名前がはっきりと目に入った。気のせいだった、で片付けるにはいっそ不自然なほど鮮明で――それはつまり高尾との別れを示唆している。
「真ちゃんどうしたの」
 しがみついたままの緑間にそっと腕を回した高尾は、離れる様子がないと見てとったのか深く息を吐くと、とんとんと背中をあやすように叩いた。
「とりあえず上がんなよ、真ちゃん。一昨日ちょっと奮発して高いハチミツ買ったから、ホットミルク作ってやるよ。な?」
「……だめだ」
 高尾の部屋にあげてもらって、あたたかい飲み物を出してもらってしまったら、きっともう言えなくなってしまうだろう。緑間は再び首を振り、からからになった口の中を潤すために唇を引き結んだ。唇を舌先で舐めてみても大した効果は得られず、乾いたため息ばかりがこぼれ落ちる。
 元々、幸福なばかりの道だとは思っていない。それでも高尾といればいつだって幸せだったから、ずっとこのままいられると信じていた。
 緑間に提示されたのは、おそらく最善の道だ。背けばなにかきっと悪いことになる。彼女と一緒になれば、緑間はこの先ごくごく平凡な幸福を手に入れることができるのだろう。ただしそうするには高尾と離れなければならない。それは受け入れ難いことだ。

 だが選ばねばならない。

 もし裏切ってこのまま高尾と一緒にいることを選んだら、きっと緑間はこの先不幸せになるのだろう。それはどうだっていいと思うけれど、それはすなわち、高尾のことも一緒に不幸にするということだ。
 逆にいま高尾と離れてしまうことができれば、緑間も高尾も、無難で平凡な幸せをいずれ手に入れることができるのだろう。いまは辛いかもしれないけれど、どれだけ悲しいことや苦しいことだって、時さえ経ってしまえば過去のことになるのだ。かつて自分のすべてを賭けて挑んだ試合に負けた時の身がちぎれるような悔しさも、近しい人を亡くす悲しさだって、時間とともに凪いでいき思い出になる、ということを緑間は既に知っている。
 緑間は頭のいい男だ。いま一時だけの悲しみと、この先何十年分かの不幸と、天秤にかければどちらが重いかなんて明白だった。
「高尾、」
  玄関の扉も開けっ放しで寒いだろうに、高尾は大人しく抱きすくめられたまま緑間の背中をさすっている。あるいは色々なことに聡い高尾のことだから、ひょっとしたらおおよそ何が起こったか気づいているのかもしれない。
 一緒に不幸になってくれ、と言ったら、高尾はきっと頷いてくれるのだろう。真ちゃんはしょうがないなあ、ついてってやるよ、と笑うのかもしれない。そう言ってしまいたい気持ちが強すぎて、緑間は恐る恐る唇を開いた。すまない、と前置きする声が掠れている。
「高尾、俺と……」