積み重ねた正しさの数

 ずい、と差し出された紙はノートから破り取ったもの、のようだった。
 それを差し出した後輩は学生服の胸元にシンビジュームの花をつけ、宮地が受け取るのをじっと待っている。封筒に入っているわけでもなく、角の部分はすでにぼろぼろになりかけている紙くずは、手紙にしてはややお粗末だ。なんだ、と訊ねるつもりで視線を送っても答える様子はなく、そういえば元々よくわからないことばかりするやつだった、と宮地は嘆息した。
「……なんだこれ」
 開いた紙の中には、ページの三分の二ほどを埋め尽くすように「正」の字がきっちりと並べられている。
 手紙や、あるいは新しい住所の連絡先(といっても、緑間が卒業後引越しをするのかどうか宮地は知らない)が書かれているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。緑間の書く文字は硬筆のお手本にならったように几帳面で、けれどどれもほんのすこしずつ崩れた形をしている。ひたすら「正」の文字を目で追っていくと、最後のひとつだけが三角目までしか書かれていないものだった。そうしてやっと理解する。これは宮地にとっては随分と懐かしく、緑間にとっては今日までを過ごした秀徳高校での「ある決まりごと」なのだ。



 秀徳高校バスケットボール部には、おそらく他のどの高校にもないある特別なルールがあった。
 バスケ部の伝統とは何ら関係なく、たった一人だけが使うことができる、いわば特例のようなもの。それがはじまったのは三年前の春、秀徳高校がキセキの世代を獲得したことによってはじまった、傍から見ればばかばかしいとしか言いようのない戯言だ。
 一日に三つだけ、なんでもわがままをきく。
 それは練習メニューに文句をつけ一人だけやりたいようにさせてほしいと宣言する、チームプレイを基本とするバスケット選手としてあるまじき発言を悪気なく繰り返していた緑間に対する、監督からの妥協案だった。部員誰もが信頼し尊敬している監督の申し出だったから、宮地たち上級生も渋々その提案に乗ったのだ。でなければ、いくら天才と呼ばれるキセキの世代の一人だったとしても、そんな特別扱いが通るはずがない。
 とはいえ後になって思えば、単なるわがまま、とも言い切れなかったのかもしれない。
 緑間があのシュート精度を保つには普通の何倍もの練習が必要だったし、体力や基礎的な動きはそもそもきっちりできていた。それにサボりたいから、嫌いな練習だから、という理由で緑間が件のわがままを行使したことは一度もないのだから。



 夏が過ぎ、秋になると、その習慣はだんだんとなくなっていった。
 緑間に合わせた出来合いのチームが、時間を経たおかげで形になってきたからだ。インターハイ予選を機に緑間のチームに対する態度は、ほんのすこしずつではあるが軟化したし、意見がぶつかりあうことも減っていった。と同時に、練習中に使う「わがまま」は次第になんでもないくだらないことに使われるようになった。何かものをとってほしい、ジュースを買いに行くならついでにおしるこを。
「はいはーい、真ちゃんの仰せのままに!」
「お前あんま緑間甘やかすなよ。つーか汗引いてねんだから先に拭け!」
 ぼふ、と高尾の顔面にタオルを投げつけた宮地は、シャツのボタンを上から順に留めている最中だった。
 そもそも高尾は三回ルールなんてお構いなしに、緑間の注文ならなんでも受け付けてしまうのが当たり前になっていた。これじゃあルールもへったくれもないじゃねえか、なんて思ってしまう程度には、宮地も他の部員たちも緑間のささいなわがままを受けることに慣れきってしまっていたのだ。
「なら宮地さんが行くのだよ。もう着替えているでしょう」
「あぁ!?」
「今日はまだわがままを一回も使っていないのだよ」
「……」
 仕方なしに差し出した手のひらに、載せられた100円玉は4枚だった。自販機までいくなら、と大坪や木村、おまけに高尾まで便乗したせいである。おしることポカリとコーラといちごミルクのおつかいを頼まれたことに長々と溜息をついて、宮地は無言で部室を出た。校内でおしるこの入っている自販機は購買の出入り口のところにあるものだけで、部室棟から行くにはその間にふたつ別の自販機の前を通りすぎなくてはいけないのに。
 ついでに自分のスポーツドリンクを買って戻ると既に皆着替えを終えていて、宮地さん遅いのだよ、なんて文句まで言われる始末だ。それでもなんだか怒る気がしないのは、このメンバーで過ごすことが楽しい、と思ってしまっているからに他ならない。
「あと二回もったいない気がするのだよ」
 カコン、とおしるこのプルタブを開けながら緑間がいい、それになぜか「損した気分だよな」と高尾が同意する。
「なんで三回も使いっ走りにされなきゃいけねーんだよアホか。轢く」
「じゃあ残りの回数メモしておけばいいんじゃないか?」
「おお! 大坪さんあったまいー!」
「肩たたき券みたいな感じか」
 けれどその場にあったなにか書けるものは部誌ぐらいしかなく、一番後ろの白紙のページに緑間は今日のぶん、と線を二本引いたのだった。マネージャーが毎日几帳面に記録してくれている部誌になんてことを、と宮地は思ったが、ともかくその日はそこでお開きになり、それぞれ自分の頼んだ(そして宮地が買ってきた)ジュースを飲みながら連れ立って部室を後にしたのだった。


「2158回ぶんあります」
 並べられていた文字を数えているとでも思われたのだろうか、黙りこくっていた緑間はそう口にした。昔のことを思い出していたとわざわざ言うのもなんだか癪だったし、いったいいくつあるのか宮地も気にはなっていたのでちょうどいい。
「あっそ」
「そのぶんだけ一緒にいて欲しい、です」
「……2158日?」
「2158日です」
 バッカじゃねえの、と返してやると、緑間はぎゅっと眉根を寄せた。本当に、どうしてこんなにばかな後輩なんだろう。
「それでいいわけ?」
 たった2158日でいいのか、それから、わがままのせいにしていいのか。だいいちお前はわがままなんて一つも言わずに、エースとして二年間やってきたんじゃなかったのか。なのにこんな部誌の一枚を大事にとっておいて、毎日きっと律儀に三本ずつ線を引いていたのだろう。本当にこの変人はやることが想像もつかない。
 というより、とっくにバスケ部どころか秀徳高校の生徒でもない宮地に対してそれがまだ使えると思っているあたり、やっぱりバカだ、としか言いようがない。
 けれど宮地の問いかけに、緑間は何も言わない。
「それでいいのかって訊いてんだよ」
「……よくない、のだよ。おそらく」
 それに、まったく、こんなバカで手のかかる後輩に絆されているだなんて笑えてくる。宮地はやや乱暴な手つきで、胸につけられたコサージュをむしるようにもぎ取った。
「だったら他に言うことがあんじゃねーの?」
 指先で触れた生花の表面はしっとりとやわらかく、へろへろになった紙くずとは対称的だ。
 ラブレターというものをこれまでも何度か貰ったことはある。けれどこれはダントツにひどい代物だった。せめて花でも添えておかなければ。
 いくぞ、と宮地はさっさと踵を返す。
 そうして後ろから追い掛けるようについてくる足音を聞きながら、そっと口元を緩めた。