ハートは君のもの

 ふわあ、と生あくびが出る。ここのところすっかり癖になってしまった。
 それをじ、っと見咎められ「眠いわけじゃないんだけどさ」と弁解した高尾は、机の上に頬杖をついて窓からグラウンドを見下ろした。金曜日の五限目は三年四組の体育の授業時間で、昼休みの終わりに差し掛かる頃にはジャージに着替えた先輩の姿が見れるはずだった。バスケ部の鮮やかなオレンジ色ではなく三年の学年色である紺色のジャージを着て、いつもの怒り顔は引っ込めて楽しげにしている様子を盗み見るのが高尾は好きだった。
 ――ところが今、グラウンドに出ている生徒は一人もいない。
 冬休みが明けると、三年生は受験のため自由登校になっていた。ウインターカップがあったのでバスケ部は年末まで三年の先輩たちも部活に出ていたのだが、進学校でもある秀徳ではむしろバスケ部のほうが例外で、他のほとんどの部活は秋までに引退することになっているらしいのだ。
 だから、おそらく、恵まれているほうなのだと思う。冬まで先輩たちと一緒にいられたことは。
 それにウインターカップだって、出来うる限り多くの勝ちを残すことができた。三位決定戦ではあったけれど、最終日まで全日試合で締めくくることができたのだから。何十も集まった強豪校のうち、半数は初日で姿を消す、そういうルールなのだから。
 でもそれはそれ、これはこれだ。
「明日からセンター試験だったか」
「……ん、そーらしいね。センターって難しいんかな?」
「問題のレベルはそうでもないだろう。先輩たちなら恐らく大丈夫なのだよ」
「ふーん、そっか」
 高尾はすっかり空になった弁当箱を元通り片付けて、カバンの中へしまいこむ。空にはうっすらと雲が掛かっていて、そのせいか今日はいつもより冷え込みが厳しい気がする。この天気は週末ごろまで続くらしい、というのは今朝家をでる前に見た天気予報が言っていた。
 せめて寒がりな先輩が、風邪を引かずに無事試験を終えてくれたらいいのだけれど。



 最後に彼と二人きりで会ったのは、ウインターカップ本戦が始まる数日前の帰り道だった、と記憶している。
 基本的に高尾は緑間をリアカーに乗せて登下校していたし、宮地のほうは三年メンバーで固まって帰ることが多かった。ところがその日は朝雨が降っていて、リアカー登校はなしだったのだ。雨は昼過ぎにはすっかりあがって、帰るころには雲ひとつなく星がよく見えていたのを覚えている。
「宮地サンさー、寒がりなのになんでアイスなんて食べるんすか」
 見てるだけで寒い、と高尾は暖かいペットボトルを手の中で転がした。きんと冷えた指先には、ずっとふれているとひりひりするほど熱く感じられる。つまりそれだけ気温が低いのだ。吐く息だって白くなっている。
 寄り道をしたコンビニで高尾はレモンティを、そして宮地はアイスを購入した。チョコがかかったちいさなアイスが六つ入った、すっかり定番化したものの冬季限定ミルクティー味だ。
 少なくとも高尾は、真冬にアイスクリームを買い食いする人間を宮地以外に知らない。暖かくした部屋の中で、こたつに潜り込んで食べるアイスが至高なのは頷くことができるのだが。
「だからいっぱい着込んでんだろー」
「でも寒い寒い言ってんじゃないすか」
「冬は焦って食わなくても溶けないからいいんだよ」
 それにかき氷系じゃないからそんなに寒くない、とわけのわからないことを言ってパッケージをやぶった宮地は、お、と目を瞬かせた。
「ハートだ」
「ハート?」
「ほれ」
 鎮座した丸いアイスのなかには、ひとつだけいびつな形のものが混じっている。
「たまに入ってんだよ。星もあるんだぜこれ」
「へー、オレ知らなかったっす。てかそんなの今初めて見た」
「レアだからな、レア」
 そう言いながらも容赦なくピックを突き立てた宮地は、やる、とためらいなくその一粒を高尾の口の中に放り込む。そして自分もふつうのアイスを口に入れるとぶるりと身震いをしながら「さみい、でもうまい」と笑ったのだった。


 ――それももう、一ヶ月前のことだ。
 なんとなく、ほんとうに根拠のない自信だけれど、宮地が引退して卒業しても関係は変わらないものなのだと高尾は思っていた。受ける大学は全て都内だと言っていたし、卒業したからといって会えなくなるわけではない。だからなにも心配することはないのだ、と。
 今思えば、それはやや楽観的すぎたのかもしれない。高尾はもう溜息をつく。
 勉強頑張って下さい、とでも年明けにメールしておけばよかった。そうしたらきっと宮地は返信をくれるだろうし、会話のとっかかりにもなっただろう。でも、受験の直前になってピリピリしているところに気を遣わせるのも申し訳ないし、なにか用事があったらそれこそ向こうから連絡がくるはずだ――なんてことを考えているうちに連絡するタイミングをすっかり逃してしまって、今に至る。
 別に、何も遠慮することはないのだ。だって恋人同士なのだから。
 そうは思っても、大学受験なんてまだ1年の高尾にとっては現実味がまったくないし、宮地がどの大学を受験するのかだってそういえば教えてもらっていない。それもひょっとしたら、訊けば教えてくれたのかもしれないが。
 らしくないのは百も承知だが、直に顔を見れないのがこんなに堪えるとは。
 あーあ、と声に出すと、緑間が今日の蠍座のラッキーアイテムだという爪楊枝をくれた。出会ったころは傍若無人でわがまま放題だったくせに、最近はなんだか空気を読めるようになってきているところが助かるような気恥ずかしいような。高尾は「サンキュ」と言ってそれを受け取り、どうやって持ち歩くかしばし迷ってから、結局弁当のおにぎりを包んでいたアルミホイルをちぎったものでくるみ、ポケットに入れておくことにした。
 そのまま入れておいたら、うっかり突っ込んだ手に刺さってしまいそうだ。

「高尾!」
 いつものように居残り練を終え着替えた高尾は、緑間と連れ立って部室を出たところだった。部室棟から昇降口へ向かう廊下の壁に背を預けるようにして、宮地が立っていた。コートを着込んでマフラーをぐるぐるに巻いた格好のまま、片手には単語帳を持っている。
「……お久しぶりです宮地先輩」
「宮地サン!? 何してるんすか!」
「オメーに用事があったから待ってたんだよ! まあ、学校に来る用事もあったし」
「いや、だったら声掛けてくれれば……」
「引退した身分で練習の邪魔できるわけねーだろ。……緑間コイツ借りるぞ」
 ぐっとダッフルコートのフードを引っ張られて、高尾は僅かによろめいた。そのとき偶然首に触れた指先がひどく冷たくて、なんだかせつない気持ちになる。
「じ、じゃあチャリ学校に置いてくから真ちゃん、明日は自力でガッコ来いよ!」
「わかったのだよ」
「じゃーな緑間、気ぃつけて帰れよ」
 片手をあげ緑間に手を振った宮地は、まるで猫かなにかを運ぶようにそのまま早足で高尾を連れて学校を出る。怒っているのかどうかは定かではないが、「オレんち寄ってけ」と口にしたきりきゅっと唇を引き結んでいた。
 数回ほど訪れたことのある宮地の部屋に入ると、コートも脱ぐ前に宮地が持ってきたのは見慣れたアイスの箱だった。人を呼びつけておいたくせに一人で食べるほど好きだったっけ、と高尾は首を傾げる。しかしその箱が目の前に差し出されたので、高尾はますますわけがわからなくなった。
 別段アイスは好きなほうではないし、むしろ甘いものより辛いもののほうが好きなのだ。それは宮地だってすでに知っているはずのことなのに。
「やるよ」
「……? なんすかこれ、アイス……って、うわ、」
 すでに切り取り線が破られていたのでフタはすんなり開く。高尾は中身を覗いて、すげー、と感嘆の声を漏らした。
 人生でまだ一度しか見たことのなかったものが、綺麗に6つ、そこには鎮座している。
「なんか知んねーけど最近すごい“当たる”んだよこれ。揃っちまったし」
「……ぶはっ、なにこれ宮地サンやばくない!? 真ちゃんより強運なんじゃないっすか!?」
「なーんーで、緑間の話になるんだよ! 焼くぞ!」
 焼くと言いながら高尾の頭を乱暴に叩いた宮地は、そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でくりまわす。
「やるっつったろ。ハート」
 だいたいお前がいつもみたいにメールのひとつも寄越さないのが悪い、応援ぐらいしろバカ。思い切り眉根を寄せながら宮地がそう言うものだから、高尾は思わずにやける口元を取り繕うことができなかった。なんだ、結局は同じことを考えていたのか、そう思うとひどく安心した。
「でもこれ全部は要らないっすよ、寒いし……あ、そうだ」
 高尾はポケットに突っ込んだままのラッキーアイテムを取り出し、ハートのひとつに突き刺した。
「半分こにしましょう」
「そーだな」
 結局なぜ爪楊枝なんて持っていたのかという話になり、正直に緑間からもらったいきさつを話した高尾はまた怒られることになるのだが、それはもう数分ほど先の話である。