Move on!

「あっ、」

 指先に浅く触れたボールは手の中に収まらず、弾かれてコートの外へ飛び出した。ピッ、とホイッスルの音。ファンブルだ。
「すんませんっ!」
 高尾のよく通る声がスキール音を掻き分けて響く。今の練習メニューはハーフコートの3on3、オフェンスのターンは今の凡ミスで終わりだ。
「宮地サン指大丈夫っすか、突き指とか」
「……あー平気平気」
「っス」
 ディフェンスと入れ替わる一瞬のうちに高尾が声を掛けに寄ってきて、俺は片手でそれを制しながらシャツの首元を引っ張りあげて汗を拭った。怪我はしていないが、ボールをはじいてしまった指先がじんじんとしびれるような熱を持っている。
 ――すんません、は、俺の方だろが。
 多分高尾と宮地の他には誰も気づいていなかったと思う。監督はちょうど席を外していたし、ディフェンスについている木村からは俺しか見えていない。高尾のマークについていた2年だってそこまで視野が広いはずがない。だからコート全体を把握できるという高尾と、その高尾からパスをもらおうとしていた俺にだけ。
 今のは俺のミスだった。ドリブルで切り込んだ高尾にディフェンスが気を取られた隙をついて外に飛び出し、ボールを貰うはずだったのだ。そのタイミングがほんの一瞬、いや一瞬の半分ほど遅れてしまったという自覚があった。
「次!」
 ディフェンスのターンを無事守り終え、大坪の合図とともにコートから出る。
 なんで俺が後輩に気を遣われてんだ、逆だろクソ、と忌々しげに舌打ちをすると、隣で声出しをしていた1年がビクッと肩を揺らした。お前に怒ってんじゃねーよ。言っても余計怯えられるのは解っているので、何も言わずにおいた。

 高尾和成は今年の新入生のひとりだ。
 そしてつい先日緑間に次いでレギュラー入りが決まり、我らがバスケ部にとっては期待の新星その2、といったところだ。
 それなりに選手層の厚い秀徳で、まさか入部してから1ヶ月足らずで2人も1年からレギュラー入りする奴が出るなんて、俺も他の部員たちもまったく想像していなかった。けれど高尾の視野の広さを体感してしまえば納得するほかない。体力や荒削りな技術といった問題はあれど、それは逆に言えばのびしろが多いということだ。
 秀徳は王者の名を背負っている。勝つためのバスケをしている。というのは本入部を決めた新入生たちを前に大坪が言ったことである。まったくもってその通りだ。
 緑間の野郎は我儘放題だが毎日時間の許す限りシュート練習を欠かさないし、それに追随するように高尾も1年のくせに居残り練習に打ち込んでいる。有望な後輩たち。実際どうなのかは知らないが、少なくともバスケにおいては、だ。
 普段はまったく考えないことをぐるぐる考えてしまうのは、高尾の出すパスのせいだ。
 高尾は俯瞰でコートの状況を把握できるといい、実際驚くようなパスを出してくる。誰かがノーマークになればすかさずそこへボールを渡す、カットしたと思えば既にボールがきている、その素早さとパスの正確さはぐうの音も出ないほどだ。あの緑間でさえ手の中に誂えたように収まるパスに、時折驚きと感心の混じった表情を浮かべることもあるほどに。
「休憩!」
 ひと通り全員がポジションをローテーションしたところで大坪が指示を出し、ドリンクボトルを手に開け放した出入り口に腰を下ろした。

「宮地サン、ちょっといーすか?」

「……ああ、俺もちょっと言いたいことあったんだわ」
「何ですか?」
「さっき悪かったな、ありゃ俺のミスだろ」
 座るよう促すと、高尾は隣に座ってボトルを煽る。まだ夏には程遠いとはいえ、体育館内はそれなりの熱気で蒸し暑い。外から流れこんでくる新鮮な空気が汗に濡れた肌を冷やして気持ちがいい。
「さっき、っつーか……まあ、ハイ、ありがとうございます」
「……ンだよ歯切れ悪ぃな」
 高尾は何か言いたげに、というより言葉に迷っている様子で視線をゆらめかせ、汗の滲んで少し赤らんでいる頬に押し当てる。すぐに逆上せるのは体力のない証拠だ。1年坊主め。
「ちょっと気になってたんですけど、言ってもいっすか」
「遠慮される方がめんどくせえ」
「はは、すんません、」
 高尾は体育館の隅に置かれたタイマーを見やり、短い休憩時間の残りを確認した。
 そして時間がそれほどないと気付いたのか、俺の目をじっと見て口を開く。
「俺から確実に死角だろって場所でも、エンリョしないで飛び出していーんすよ」
 それが俺の特技なんすから。そう付け加えながらもじっと見つめられて、なんとなくいたたまれなくなった。真顔になるとあまり目つきのよくない高尾の、わずかにオレンジがかったグレイの瞳はいろいろなものを見透かしていそうで。まるでコートの中を見渡しているように。
「、してねーよそんなん」
「んじゃ言い方変えますけど……、俺のこと少しは信用してください」
「……っは、?」
「宮地サンは気付いてないかもしれないですけど、」
 高尾は唐突に視線を外し、立ち上がると肩を回しながら先ほどまでと打って変わって軽い口調になる。
「俺は宮地さんがフリーになった瞬間に受け取れるようにパスを出してます。そのつもりです」
「あ? 当然だろ」
「100%正確に出せるとまで思い上がってはいないですけど、なんでファンブルするかって、それは先輩が一歩踏み出すのが遅れてるからじゃないんですか」
 ビー、と、休憩の終わりを告げるブザーが鳴った。休憩はこまめに取るけれど、その時間は決して長くないのだ。
 それを合図に、頭を下げながら高尾はコートの中へ戻っていった。「俺はマジで勝ちたいんで」。生意気にもそんな捨て台詞を残して。そんなの当たり前だろうが轢くぞ糞ガキが。と同時に、今日だけではない、ずっと感じていた些細な違和感に合点がいってしまったものだから困る。いつも本当に僅かに、伸ばした手のほんのすこし先に出されるパスについて。レギュラー入りしたばかりの高尾との不和について。
 立ち上がってその後姿を追うと、高尾がちらりとこちらを見た。自分から発破をかけてきたくせに心配そうな顔をしながら。なんだこいつバカじゃねえの、勝ちたいのなんて一緒に決まってんだろ、秀徳のレギュラーっつうのはそういうことだろ。
「おら! 1年ダラダラすんな!」
 コートの隅でバテ気味にしている1年たちに怒鳴りながら、高尾の頭をわしわしと掻き回してやった。ちょうど弄りやすい位置に頭があるんだからしょうがない。
 たった1か月で、こいつの人となりなんて解るはずがない。
 掴みどころがなく、へらへら笑ってばかりのムードメーカー。だけどパスを出すのが異様に上手くて、他の先輩らのイビリにも動じない、秀徳の新しいポイントガード。2つ上の先輩に向かって啖呵を切る根性もあるくせに、どうやらあとから後悔してビビったりする可愛げもあるらしい。
 まあとにかく、バスケに関しては、勝つことに関しては真面目なようなので。だったら俺だって迷わず飛び出してやる。だから最高のパスを寄越せよ、高尾和成。