緑間と先輩の話

【登場人物補足】
矢崎……秀徳高校バスケ部3年、ポジションSG。背番号12。

 *


 後悔、というものを緑間はこれまでしたことがなかった。ただのひとつも、だ。何事にも常に人事を尽くすのが彼のポリシーであったし、それには必ず結果が伴ってきたからだ。帝光時代も、そして秀徳に進学した今でも。コートのどこからでもノーマーク時のシュート成功率十割を叩き出す、そのまるで嘘のようなシュートテクニックも、ひとえに緑間の努力の賜物なのだ。学業においても例外ではなく、進学校である秀徳でも常に上位の成績をキープしている。素行もよい。だから入学当初から三年間エースの座を約束されていることも当然だと思っていたし、事実そういう前提で緑間は秀徳に迎え入れられたのだ。エースにふさわしいのは自分であるという自負だってもちろんあった。
 ――少し前までは。
 いま、緑間にはいくつかの懸念があった。これまで一度も抱いたことのない感情だった。それはもやもやと胸の中にわだかまっていて、なんとか言葉にしたいけれど難しく、また出来ることなら秘めたまま誰にも知られたくないような気もする。
 キセキの世代が高校に上がるにあたって、高校バスケットボール界のパワーバランスは変化した。キセキの世代を獲得したのはバスケット強豪校と呼ばれるところがほとんどだったが、それにしたって、他の強豪校とは一線を画すことになったのだ。東京では三大王者と長らく呼ばれてきた学校たちは、秀徳を除きその座を桐皇と誠凛に奪われて燻っている。秀徳とて緑間を手に入れることができなければ、全国大会常連校の座から蹴落とされていたかもしれないのだ。そしてそのことは、部員たちの誰もが理解している。キセキの世代を誰より間近で見てきたのだから、その力はあれこれ騒ぎ立てる外野などよりよほど身に沁みていて当然なのだ。だから自分はエースとして堂々としていればいい。それは間違っていなかったはずだ。
「……高尾、すまない少し外す。待っていろ」
「えっ!? 真ちゃん、先輩たちんとこに挨拶……っ」
「すぐ戻る!」
 緑間はガヤガヤと騒がしい昇降口を足早に駆け抜け、戸惑う高尾をそこに置いたまま校庭に出た。辺りを見渡すと、ところどころに見知った先輩の顔がある。
 先ほど卒業式を終え、三年生たちは思い思いに友人や後輩と話をしている。涙を流している者もいた。既に下校してしまった生徒もいるだろうが、まだ大多数の三年生が別れを惜しんでそこに残っていた。緑間は人の間を縫いながら、目当ての人物を探していく。今の今までどうすべきか決めあぐねていたが、今日しかないのだと思うとやはりどうにかしなくてはいけないと思った。いつか、ではもう遅い。
「緑間?」
 うろうろしていた緑間を呼び止めたのは前主将の大坪だった。卒業おめでとうございます、今までありがとうございました、そんな風に言いたいことは沢山ある。が、緑間はそれらの言葉を一旦飲み込む。
「……大坪さん、矢崎先輩を知りませんか」
「矢崎? 恐らくクラスの方にいるんじゃないか、5組の連中はさっき見かけた気がするんだが……」
「わかりました、すみません挨拶には後で高尾と伺います、また」
 5組、と緑間は呟きながら人波を掻き分けていく。クラスによっては卒業式後そのまま集まりがあるだろうし、部の引退式はウインターカップが終わってすぐに済ませてしまったのだ。大坪や宮地、木村といったレギュラー陣とは懇意にしてもらっていたこともあって、卒業式後に高尾と挨拶をしにいくことになっていたが、それ以外の先輩たちとは特にそういう予定がなかったのだ。そもそも人数も多いため、全員に会うことははじめから難しい。
 緑間は、後悔というものをこれまでしたことがなかった。
 けれどいまはある。後悔というにはまだささやかな、いわば魚の小骨のようなものだけれど、時間が経てば経つほどひっかかっているのが気になってくるような、そういうものだ。
 今になって思えば、入学したての頃の自分は随分と傍若無人なものだった。そう緑間は振り返る。ボールさえ回して貰えれば自分一人で勝利できるのだと、半ば本気で信じていた。中学時代の経験が緑間をそうさせていた。そのため練習中もやりたいようにしてきたし、貰ったワガママの権利は余すところなく使った。
 矢崎、というのは3年生の先輩である。つまり今日、この秀徳高校を卒業する。負けん気の強いレギュラー陣の例に漏れず、彼もまた「どちらかといえばこわい」先輩に、1年生たちの間では分類されている人だ。そして緑間はどうしても今日、彼に会わねばならないのだった。会って、一言、どうしても謝らねば。そうしないときっと、この先バスケを続けている限りずっと後悔し続けるだろう。
 うろうろと当てもなく歩いていると、緑間、と探していた声が後ろから飛んでくる。緑間は慌てて振り返った。
「先輩」
「大坪から探してるって聞いた。お前ほんと便利だなその頭、」
 背も高いし見つけやすかったわ、と、緑間より頭半分ほど身長の低い矢崎は眉尻を下げて笑った。学生服の胸元には他の卒業生たちと同じく、コサージュが留められている。
「まーいいや、俺もお前に言いたいことあったしな、卒業しちまう前に」
「……、はい」
 緑間は逡巡したのち小さく頷いた。ほんの少し声がかすれた。何を言われるかだいたい検討はつく。周囲は他の生徒たちの喋る声でがやがやとうるさいはずなのに、二人の間だけ時間が止まってしまったような、妙な緊張感があった。緑間は静かに喉を鳴らし、卒業証書が入った筒を手のひらでぽんぽん弾ませている様子をみつめる。
「ありがとな」
「……は、い?」
「ウチをいっぱい勝たせてくれて」
 矢崎はシューターだ。緑間が加入したことによってベンチを余儀なくされた。もし緑間がいなければ、秀徳のシューターは彼だったはずだ。勝ち試合で緑間が温存されている間、その代わりにコートに立っていたのは彼だった。けれど矢崎が3年であることや、ポジションを奪ったこと、そういった事情を緑間は当然のことだと思っていたし、自分が温存されている間に負かされることのないレベルの選手なら誰が入っても同じだ、とすら思っていた。そんな態度の緑間のことを、彼はきっと嫌っていたに違いない。
 あの試合、インターハイ予選で敗退を余儀なくされたあのあと、緑間は矢崎と一度口論になったのだ。口論、というには語弊がある。二、三指摘を受けた緑間は「オレより点も取れないのに口を出さないで下さい」と言い捨てた。初めて味わった敗北の辛酸は、そうそう簡単に忘れられるものではなかったから。そう後から理由づけても、吐いた台詞がなくなるわけではない。矢崎と二人で話をするのは、それ以来のことだった。
「次は優勝しろよ、頑張れ……とは言わねえけど。お前人事尽くしまくってっからなぁ」
 ぽこん、と筒で頭を小突かれ、緑間はぎゅっと目を瞑った。矢崎はじゃあな、と言いながらひらりと手を振りさっさと背を向けてしまう。言いたいことを何一つ言うことができていない、ということに緑間が気づいたのは、人混みにまぎれてその姿を再び見失ってしまったあとだった。
 真ちゃーん! と、高尾の呼ぶ声が聞こえる。立ち尽くしていたせいで軋みそうになりながらなんとか振り返ると、高尾は宮地と一緒だった。業を煮やして探しにきたついでに偶然会ったのだろうか。宮地も胸に同じコサージュをつけていて、緑間は気づかれないよう奥歯をぎゅっと、一度だけ、強く噛み締めた。